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プロフィール記事〜人生の振り返り〜

ちょいちょい書いてきたnoteを、自分の本格的なアウトプット先にしたいと思い、自分の人生の振り返りも兼ねて自己紹介記事を書くことにしました。

現在、関西在住の28歳です(2023年11月現在)社会人4年目になります。自分の人生の棚卸しをします。


臆病で人見知りな幼少期

三人兄弟の長女として、高卒の両親の元に生まれました。両親は会社の同僚で、父は定年まで一社で勤め上げ、母は出産を機に退職、専業主婦であり、ごくごく一般的な家庭に育ちました。

割と厳しくしつけられ、小さい頃は門限が17:30、ゲームは1日30分まで、就寝時間は確か20時とか21時とかだった気がする。私自身は、とても臆病で人見知りな性格で、幼稚園の集合写真は一人だけ母親に抱っこされて写っているような子だった。反面、小さい頃から意思が強く自分が決めたことに固執し、真面目で負けず嫌いな面もありました。その象徴的なエピソードが5歳から15歳まで習い続けたピアノで、「あれやりたい」と思い1年間母親を説得の末、ようやく習わせてもらっていました。一年間、やりたい思いを消さず説得し続けたわけですね。(ピアノはお金もかかるので)

宿題もきちんとやらされており、門限が早い分帰宅後は即宿題、ご飯を食べてすぐ寝るみたいな生活だった。ただ私は、自分自身の負けず嫌いな性格も相まって、誰よりも宿題を多くやってくる子で、百字帳や計算ドリルは人の2~3倍はやっていました。その甲斐あってか、昔から学校の成績もよかったです。

自分を解放しつつも自己肯定感が下がった思春期

自分の臆病な性格が徐々に薄れていったのは小学校高学年くらいで、元々いろんな習い事をやらせてもらっていたくらい好奇心旺盛な性格もあり、学校が主催するバスケットボール、バレーボール、マラソン系統などいろんなスポーツもやりました。スポーツをやることで少しずつ明るい性格になり、学級委員長までやるような子に変わりました。ちょっと怯えながらも結局、クラスのお調子者ヤンキーにも注意するようなタイプで、とにかく責任感が強い子だった。中学校に上がっても引き続き委員長を買って出て、生徒会長選挙にまで出ていた。一方で周りへのアピールが下手で選挙は落選。それでも生徒会や学級委員長、あとは合唱コンクールのピアノ伴奏など、とにかく誰かをリードするようなことが好きな子供だった。

反面、自己肯定感が下がり出したのも中学生ごろ。当時バスケットボール部に所属していた私ですが、運動神経は特別いいわけでもなく、バスケのセンスもなかった。毎日の朝練に少し早め行き自主練、放課後部活後の自主的な走り込みやドリブル練習など、少しづつ努力を積み重ねていったつもりだったけど、正直バスケが上手いとは言えなかった。後輩にも実力が負けていく中、努力をみてくれる当時の顧問の意向で、スタメンには出してもらえるけどすぐコートから出される、みたいな感じで、それがとんでもなく惨めで自己肯定感を下げていった。加えて、部活仲間やクラスの友達からも仲間はずれにされたりと、人との関係構築もうまくいっておらず、思春期の自分にとってはその後の人生に影響を及ぼすような経験になってしまった。

勉強だけは唯一できたので、当時選べる公立高校の中で一番偏差値が高かった高校にめでたく進学。したものの、学力レベルの高さについていけず、さらには部活をソフトテニスに変更したこともあってさらに部活もついていけなくなり、挙げ句の果てには高校1年の夏、膝の半月板を損傷し全治半年強、部活自体できなくなり、どんどんどん底に落ちていった。

意思が強く真面目で負けず嫌いな性格が功を成した大学受験

それでも幼い頃からの、真面目で負けず嫌いな性格もあり、部活復帰した私は、毎朝7時にコートへ行って自主練するところに付き合ってくれる仲間もいたり、一度は落ちぶれたものの勉強も巻き返し、学年で280番台とかだった学力が、50番以内まで上げることもできた。教科によっては一桁台にも乗った。しかし第一志望の旧帝大に落ち、諦めきれず浪人。一年間一切の遊びを断り朝から晩まで予備校に篭り、一浪の末第一志望校へ進学した。私の学生時代で最も誇れる成功体験になった。

しかし大学生になって一転、これまでの勉強地獄からの解放を逃れるかのように授業に行かなくなり、所属していた学生団体の活動にのめり込んだ。のちにこれが、「人材業界」での仕事を選ぶ理由になり、自分の生き方を創ってくれた経験にはなった。約2年間所属後、このまま勉強しないのはまずいと思い、一歩間違えれば留年のところを挽回しにいった。他には、休学をしてワーキングホリデーで海外に行くなど、好奇心旺盛な性格も昔からのままだった。卒業前は「早く人材業界で働きたい」と、企業でインターンをした。どこまでも真面目であった。

大学時代の経験から、人材業界で生きていくと決意

「沢山の人を”働くこと”を通じて幸せにする」という思いを持って選んだ1社目の人材会社。自分の社会人の基礎を創ってくれた3年間。朝8時から仕事を始め、1年目は夜中の0時まで、コロナ禍もあり完全在宅勤務で仕事をし続けた。土日は寝溜めと仕事の続き。もう働けないと思ったこともあったけど、やはりこの業界は私の天職なのかもしれないと思うくらい、辛い辛いと思いながらも根本的には仕事が好きだった。特段ハイプレーヤーなわけでも特別なスキルがあったわけでもないけれど、営業として成果を残すこともでき、それなりにやり切ったとも思える、大学受験以来の成功体験になった。

3年間、営業を中心に企画系の仕事にも携わったけれど、やはり自分がやりたい仕事がしたい思いが消えず転職をすることになる。1社目の仕事は媒体営業に近いものであったが、学生時代から「転職エージェント」の仕事がしたいという思いが強かった。1社目の選択に後悔は全くないけれど、さらなるキャリアアップを求めて転職。2社目に入社。これが2023年春の出来事。

2社目を早期離職、もう一度やり直したいと強く思う今

1社目でプライム上場企業に3年いた自分が、いきなり社員数数名のベンチャーへ入社。これがきつかった。念願だった「転職エージェント」の仕事をすることは叶ったけれど、環境が合わずに休職の末、約半年で早期離職することに。

※当時のことを綴った記事がこちら↓

そして転職活動の末、年明けから改めて「転職エージェント」として再出発することに決まった。社会人歴まだ3年半。まだまだな私ですが、やっぱり私には人材業界しかないと思う。一方で、人生長い中でまだ3年半。これからやり直せると信じたい。3年半で次3社目に行こうとしている私の人生、学生時代は思ってもみなかったし、なんでこうなってしまったんだろうとも思うけれども、過去を悔いても仕方がないし、こういう経験をしたから分かったこともあるし、人の痛みも分かると思う。

このプロフィール記事にこれからどんな続きが追加されるか分からないけれど、前を向いてその時々で自分ができることを懸命にやっていくのみだと思っています。



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