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【創作小説】見るに耐えない⑪(最終回) 徒夢


「マスターさん。」
久しくそう呼ばれて、レジを打つ手が止まる。
何処となく見覚えのあるおっとりとしたマダムは、にこやかな表情で話しかける。
「前のお店の時にね、度々お邪魔してたの。こちらに移ってから今日初めて来たの。」
「ああそうでしたか、恐れ入ります。」
「お店の雰囲気変わったって聞いていたけれど、ちゃんと面影が残っていて安心したわ。」
マダムは振り返ると、遠くの壁に掛かった振り子時計を指さす。
「あの素敵な時計、よく覚えてるもの。」
ありがとうございます、という言葉が詰まり吃ってしまう。改めて「ありがとうございます。」と言い直し、レジのお釣りを手渡す。
「また来ますね。」という言葉を残し去るマダムに、軽く一礼をしながら見送る。

変わった。自分でもそう思っていた。

あの時計は前の店舗の頃から持ってきた、とても大切な宝物だ。
イタリアの骨董品屋で、お土産として購入したものだった。


まだ会社員だった頃、ろくに消化出来ない有給を思い切って海外旅行に費やした。
辿々しい足取りで巡るフィレンツェの街並みは、それはそれは美しく、しかし決して気取らないファッションも食べ物も、その空気がとても心地良かった。
オープンカフェでコーヒーを飲みながら、じんわりと素敵だと思ったのだ。

日本に帰ってからもその余韻は抜けず、あの雰囲気にずっと浸れていたら、いつまでも慣れない営業なんて辞めて、自分でもお店とかやってみたら良いのかな、なんて考えながらキッチンで生豆を煎ってみたりしたんだっけ。

少ない早期退職金を手元に、初めて構えた場所は半地下の狭いテナントだった。
カウンター席と、二人掛けテーブルが一席のみ。内装もイタリア製の家具をわざわざ取り寄せたりして、狭いなりに結構お金はかけた。その分、自分でも気に入ったお店になったと思う。
ホットとアイス、あるいはミルクを入れるかでも抽出の仕方を変えたコーヒー。
軽食はイタリアやフランスなどから取り寄せた焼き菓子のみ。
そんな頑固で質素な僕のお店でも、お客さんは来てくれた。

良い日々だった。
でも、それも数年だったんだな。

都市開発が進められる関係で、自分の店の場所も移動の勧告が来てしまった。この辺りの下町は古き良きものも多いけれど、結構そういった大々的な開発がどこも始まっている。
困ったな、常連さんもせっかく居るし、近所に良い所あるかなあ。
そうして探してみたら、元々ファミレスだった場所があると。ファミレスにしては狭い店舗だったから、と不動産屋に薦められるまま、ちょっと広くなるのも良いかもしれないな、と思い切ってそちらに移転した。

しかし、ファミレスにしては狭いと言われていたが、自分の喫茶店にしてはだいぶ広く感じた。
半個室の席だらけの内装を変えるほどお金もかけられない。銀行から借りるにしても限度があるし、どうにかこの形を生かして営業してみるか。それでも移転と改装費でだいぶ疲弊した。

いざ開店してみれば、常連さん新規さん、初めのうちは興味津々に人が来てくれたものの、しかし前の店とは勝手も違うし、僕自身も広すぎる店舗にしっくりしないまま営業し始めてしまった。
そして徐々に人が来なくなる。バイトさんも雇ってしまったし、お給料も払っていけるだろうか。

僕は分からなくなってしまった。

人気のない店内で、退屈そうに綺麗なテーブルを整えるバイトさんに、ふと相談してみた。
どんな喫茶店だったら、来たいと思いますか?
バイトさんとは色々お話しをした。

そうして、僕はつまらない拘りを徐々に捨てていった。
コーヒー自体への拘りは変えずに、軽食メニューを増やしてみた。
ふと近所のパン屋やケーキ屋を訪ねる。思った以上にそれらはとても美味しく、どこか味わい深い。灯台下暗しだ。その場で、うちの店内で出しても良いか交渉をする。

そして、あれやこれやと色々試してみた。
モーニングやランチ限定のセットを組んでみたり、流行りのラテアートの作りを学んでみたりして、いつの間にか今のスタイルにまで成長した。すごく忙しいけれど、人は段々と来てくれるようになった。バイトさんや調理師さんも徐々に加わった。

変わったんだ、変わらなければいけないんだと思い、今までも続けていた。
それなのに、今日の元常連さんには面影が残っていると言われて、
どういう訳か、心がすっと軽くなった気がした。



おっといけない、目元を手で押さえる。お客に悟られないよう壁を向く。
壁には巨大な虫が張り付いている。
それが目に飛び込んできたものだから「うおっ」と低い声が店内に響いた。客がこちらに注目する。狼狽えながらも「失礼しました」と一礼すると、客たちはまた半個室の自分たちの世界に戻っていった。

ああびっくりした。改めて壁を見るとそれは虫ではなく、白い紙で精巧に折られたザリガニであった。
いつだったか、ここのお客である女の子が作って置いていったものだ。それをバイトの子が丁寧に、薄い金色の紙を敷いたりして、ボックスアートとして飾っていたのだった。額装すればそれっぽくなるものだな、と感心した事を思い出した。ここに飾られていたとは。
そういえばここ最近この店で見かけていない。前はあの子だけでも週に二、三回は見えていたものだが。

「店長〜、ちょっといいですか〜。」

噂をすれば、ボックスアートを作ったバイトの子が軽やかな足取りで、スマホを掲げながらやってくる。去年の秋頃からここで働いている設楽という子である。
これです、と差し出されたスマホ画面には、この喫茶店の看板や内装、変わったオーダーのドリンクの絵柄のTシャツやらキーホルダーやらが映っている。
「グッズ!グッズ作りましょうよ!」

設楽さんはこの春から専門学校に通っているらしい。高校出たての子達に混じって、デザインを学んでいるのだそうだ。まあ三十代や四十代というわけでなく年も近いのだから、溶け込みやすいのだろうけど。

「最近は簡単にこんなグッズ作れるサイトいっぱいあるんですよー。在庫も抱えなくていい所なんてのもあって〜、レジのところにキーホルダーとか置いてあっても良いじゃないですか。アクリルスタンドなんてのも乙ですよ。あっ、ガチャガチャ設置しても良いですね〜。」

乗り気でプレゼンを披露する彼女に、うーん、と店長はすこし浮かない表情をする。今現状これでもかなりフランクなのに、なんだか更に浮き足立った感じになってしまわないか、という懸念だ。店長自身、グッズの管理まで出来るかな、と。

「あんまりカジュアルになりすぎるのは抵抗あるんだけどなあ。」
「分かってますって、今までもいい感じに仕上げてきたじゃないですか私たち。」
「それはそうだし、信用しているけど……。」
「グッズは儲かりますよ〜。二号店、作りましょうよ。」
「えっ」

設楽さんのばっちりアイラインをキメた目が爛々としている。

「予想外の人生になっても、そのとき幸せだったらいいんですよ。」
松岡修造もそんな事を言っていた。
「今は、今しか無いんですよ。」
島本和彦もそんな事を言っていた。

「でもなあ……。」店長は煮え切らない。

設楽さんの顔がきいっ、と般若のように鋭く変わった。
「コメダ珈琲に足元見られて、買収とかされたら悔しくないんですか!?」

それは、嫌。

「………………任せるよ。」

よおっし!頑張りますよ〜、と設楽さんはけらけら微笑みながら仕事に戻っていった。元気だなあ、と後ろ姿を見送る店長も、側の空いた席に残されているグラスに手を伸ばす。
まあ、なるようになるかな。賑やかなメニュー表を立てかけ、テーブルを白いクロスで丁寧に拭く。


安いモーニングと大容量が売りの、カスタマイズに融通が効くと評判の喫茶店は、今日も元気に営業をしている。
早過ぎる夏の気配。お気に入りのTシャツにつけた染みが、いつまでも残って肌に張り付いている。


(見るに耐えない・終)










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参考文献▼


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