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痛みという経験の先にある扉

わが家の寝室は
敷き布団を3枚並べて
親子5人で寝ているのだけれど

起きてみたら寝る前と
子どもたちの位置がたいがいが変わってる。


夜中にふと目が覚めたとき
私が隣にいないと

兄弟を乗り越えて
私の隣にピタリとひっついてきたりする。

いつも、そんな様子が
たまらなくかわいいのだけれど


あの『お母さんどこ?』

という反応は
どんなヒトにも備わっている
お母さんへの恋ゴコロなのだなぁと思う。


安倍元総理の事件にしても

暴力
アルコール
お金
人間関係
不登校
いじめ

などなど


どんな問題も
お母さんとの関係性に
多くはそのトリガーが存在している。


『お母さん』

と自分が求めたときに
あたたかい眼差しを
向けてもらえたかどうか

というところが
『安心』の芽の成長に左右してる。

で、ですよ。


私が16歳まで住んでいた
生まれ育った地元は

親がいなかったり
事情があって家族から離れている
子どもたちがいる施設があって

特に中学校には
そこから通う子どもたちがたくさんいた。


それを肌で感じながら
私も親と暮らしているとは言えども
家の事情がある身であって


親と暮らしていない
親との関係が良好ではない
愛憎入りじまっている

というように

自分の欲しいカタチで愛を受け取れない

という子どもが
どんな風な成長過程をたどるのか
どんな感情を抱いているのか

ということを、今思えば
たくさん学ばせてもらえた場だった。


じゃあ、なんでわざわざ
ストレートに自分が欲しいかたちの
愛をもらえない親を

自分が選んでいるのか
(ここは疑う余地のないところ)


といったら、やっぱり

自分のスピリットの成長のためで。


『毒親』とか『親ガチャ』というフレーズだけでも

お母さんやお父さんに愛されたかった
寂しいよ、悲しいよ

という痛みと

それをごまかすために誰かのせいにして
攻撃するという依存状態になってる

ていうのがありありと伝わってくる。

自分は、

その痛みと感じられている
あらゆる経験を

生まれてくる前に
望んで決めてきたわけで

それをすっかり忘れて
生まれてくる人が大多数だけれど


その痛みや経験をもってして
たどりつく扉って

必ずある。


だから、他人との比較って

本当に無意味で。
(無意味だけれど世の中は比較が大好きで
地球という星はそんな矛盾が存在するホシ)


痛みという自我は存在しない、幻想だから。


痛みを癒しながら

スピリッットの思考を選ぶココロを鍛えよう。


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