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わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っている

おひさしぶりです。

3月は確定申告と資格取得のための勉強と受験で忙しく

4月は人生初の一人旅とゆかりの地を訪れるのとで半ばを過ぎ

これから帰省が控えているのでまだまだ落ち着かない日々が続きますが

すこし記録を残しておきたくてもどってきました。

前回の記事で、

今は自身のキャリアや生活について思いを巡らすことが多いですが


と綴ったのですが、最近になって一大決心をし、

自身の抱える案件のうち、もっともウエイトを占めるものを手放す決断をしました。

続けていれば経済的にオイシイことは間違いのない案件ですが、

今年のわたしは以前にもまして自分の価値観にしたがった選択をしようと心に決めていて、

関わっていると心がしぼむ仕事・人・環境とは離れようと思った次第でした。

自身の息苦しさとオイシさを天秤にかけては「あとすこし耐えよう」と続けてきたこの案件。

日々いろいろなことに目をつぶってきたのですが、耐えられない出来事が起きたことにくわえ、

心因性の微熱と頭痛が復活したことが決定打となりました。

わたしは幼少期から我慢をし続けたりストレスに晒され続けたりすると

微熱を出すか頭が痛くなるか、そのどちらか(あるいはどちらも)に見舞われる体質で。

ある年には微熱と頭痛が半年以上続いたので、

さすがに耐えかねてカウンセリングを受けたという経緯があります。

最近の微熱・頭痛は、あきらかに仕事が原因だとわかるものなので、

かえって「わたしの気持ちに気づかせてくれてありがとう」と感謝がわいてくるくらいです。笑

この案件を畳んだらいろいろと困るわ……、と

途方に暮れながらも、どこか新しい未来に向けてワクワクしつつ。

いくつものピンチをくぐりぬけてきたわたしなので、今回もどうにかするでしょう。

(どうにかなる、ではなく。どうにかしてきた自負があります)

前回記事のタイトルに冠した「痛みや恐れとともに歩みゆく」とは、まさにこのこと。

傷つきながらも先を行く
後ろを向きながらも前に進んでいく

わたしの人生はずっとそんな風にあったと思います。

これからはあまり苦しまず、鼻歌でも歌うような暮らしをしていきたいものですが

もうすこし、もがく時間が必要みたいです。笑

実は、案件を手放すと決めるより前に新しい取り組みへのチャレンジを始めていたので、

手放す案件の穴埋めをどうしようか、という切実な問題のほかに、

いずれそちらの方でもよいご報告ができるよう、頑張ります。



閑話休題で、こちらは4月の白いつつじです。よく撮れたのでシェアを。花言葉は「初恋」だそう。

光の加減が美しく、なぜだかベルニーニの彫刻を彷彿とさせます。

こちらは旅行先にて。

先の見えない道の向こうに、望む未来が用意されていますように。

と願うと同時に、望む未来がすでに用意されているものとして今この道を進んでいこうと思います。



さて、今回の記事タイトルは『光であることば』(若松英輔 著)に収録されている

新約聖書「ローマの信徒への手紙 8章24-25節」からの引用です。

目に見える望みは望みではありません。
目に見えるものを誰が望むでしょうか。
わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。

ツインレイとの統合を願うわたしたち、自分らしく生きようとするすべての人たちには頷ける言葉かもしれません。

それをわたし流にいえば、

目に見えないものについて一心に祈る、その真摯さにこそ奇跡は宿るものとまた信じている

です。

今日も明日も、真摯にありましょう!



そういえば、前回記事では次のように予告していたのですが、今回は全く異なる内容になりました。

次回の記事では、(中略)
ツインレイとの間に起こる不思議や奇跡について、ごくごく一部ではありますが、わたしが体験したエピソードを紹介しようと思います。

ご期待くださっている方がいたらごめんなさい。


落ち着いたタイミングでお届けしたいと思いますので、ふんわりお待ちいただけるとうれしいです。

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