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目に見えないものを信じ、愛のために降伏する先にあるもの

おはようございます。今日は珍しく朝の更新です。

今月は色々なアウトプットと勉強に忙しく、

今朝はうんと早起きをしてタスクを片していたのですが、

音楽をかけていたらなんだかとても泣けてしまって、これを書いています。

別に思い出だとか、思い入れのある曲なわけじゃないのに……

どうも琴線に触れる音色やメロディというものがあるようで(洋楽なので歌詞は関係ないのです)。


昔に比べれば、今はとても落ち着いた生活で、あまりの理不尽に涙をこぼすこともそれにプラスして泣きっ面に蜂、なんて目に合うことも少なくなってきたけれど、

それでも泣きたくなることがあり、それは決まってツインレイのお相手のことで。


別に、その人を思ってさみしくなっているわけじゃない

いますぐ会いたいというわけでもない(会えるなら歓迎するけれど笑)

このめぐり合わせを新鮮に恨んでいるわけでもない

今この瞬間に愛しさが溢れてきたわけでもないのだけれど

じゃあ何か?と言われると、それはもう形容のしようがなくて。

得も言われぬ想いを声に出せないかわりに、目と鼻の奥がつんとするみたいです。

言葉にできない想いがあるなんて、思いもしなかった。

子供の頃から何かと「書く」ということが得意で、言語化するのが好きだったのに。

この想いだけは、とらえどころがなくて言葉にできない。

これがただの恋愛なら、わたしはいくらでも饒舌に語るのに。

祈りの域に達した愛は、目に見えなければ言葉にもできない。

誰に話しても嘘になるようで、ましてお相手本人にさえ正しく伝わらないような気もする。

もしまた会えたとして、わたしはそれを伝えようとも思わないけれど。

とにかくこの形のない、名前のない感情の生みの親はあなたなのに、

あなたはそれをまったく知らずに生きるなんて、とても不思議なこと。

結局わたしたちは、お相手をそのまま見ているのではなくて、

見たいものを投影して、それを見ているのだなと思う。

わたしが愛しているお相手は、お相手の実態とはかけ離れてしまっているかもしれない。

わたしが愛しているのは、まぼろしなのかもしれない。

ツインレイの概念を知る前、とっくの昔からこんなふうだから、「ツインレイだから」と執着しているわけではないのです。

それに、お相手に限らず、手痛い失恋も経験した。

「しょせん、未完了の恋愛だから引きずるのよ」なんて思っていた時期もある。

けれど、8年も忘れられず、この先に道があると信じられるのはお相手だけ。

信じることで補強されている道なのか、信じさせられる事自体が縁なのか、

そんな堂々巡りを久しぶりにしている春の日。



最近、やたらと遠藤周作の「沈黙」を思い出すのです。

信仰とは、目に見えないものを信じること。

わたしはときどき、ツインレイとは宗教だなと思います。

目に見えないものを信じるその先に、信仰にもまさる愛を見つけたとき、

わたしたちはそれに降伏し、すべてを失い、同時にすべてを得て結局はその先でまた、目に見えないものに救われる。

「白蛇の夢を見たら、誰にも言ってはいけない。幸福が逃げるから」

なんて言い伝えがあるけれど、目に見えないものを信じるとはそういうことかもしれない。

目に見えないものについて一心に祈る、その真摯さにこそ奇跡は宿るものとまた信じている。

わたしたちはすでに、愛の道を行く信徒なのでしょうね。

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