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名前のない書物(第三十回)

螺旋【
 
 表通りを避け、ひたすら裏道を巡って、掛け小屋にたどり着いたときには、もうとっぷりと日は暮れていた。
 そこは、下町のただ中にぽっかりと開いた空き地だった。旧い海賊処刑場の跡地だった地所で、近代的な高層建築の並ぶ中心部とは違い、平屋の民家が軒を連ねる一郭にある。周囲の茶色い絨毯めいて広がる町並みには、毛細血管のように縦横無尽に路地が走っている。ところどころに突き出た尖塔ミナレットは寺院のもの。掛け小屋のあるの広場も、寺院の敷地の一部だった。
 明日は興行の初日であった。敷地内ではまだ電燈がたかれ、もろもろで手間取った者たちが、突貫で準備にいそしんでいる。せわしなく金づちを打ちつける音や、息を合わせて重い資材を持ち上げるかけ声が、あちこちで上がっていた。
 遊技場ペニイアーケイド脇興行サイドショウの小屋のあいだを抜け、電気提燈ランタンで縁取られた即席の中通りメインストリートを進んだ。作業の合間につまめるように、気をきかせた者が用意した揚げ菓子の匂いが、香ばしく漂っている。
「おや、おかえりなさい。早かったね」
 横合いの小屋の幕扉が開いて、一つ目族のワンが顔を出した。
 〈恐怖の怪力男〉ことワンは、一つ目族の若者だった。褐色の素肌に革の胴衣ベストを羽織り、ゆったりとした褌子ズボンを腰ひもで止めている。六フィートを軽くこす巨躯と魁偉な容貌から、野蛮な種族と思われがちだが、一つ目族は平和を好む穏やかな人々だ。特にワンは、草花を愛し、虫もころさないほど優しい。
「サイレンが鳴っていたけど、何かあったのかな」
 左手に鉢植え、右手に園芸用具を持ったワンが小首をかしげた。ショウで、鉄棒を飴のように曲げるたくましい腕が、ポインセチアとスコップを握りしめているのは、妙に可愛らしい光景だった。リナもワンが大好きだった。
「わからない。ついてないわ、買い物する前に帰って来なきゃいけなくなって」
「そいつは残念だったね。でも遅くならなくてよかったかもしれない。暗くなると〈木男〉が出るからね」
 〈木男〉というのは、近ごろ帝都に跳梁跋扈し人心を騒がせている怪人物で、人びとを拐っては殺害しているという。今まで狙われたのは作家、劇作家、詩人、脚本家、作曲家などの一般に創作家と呼ばれる人びとだった。もっとも、名の知れた職種だから報道で取り上げられがちなだけで、無名の市井の人びとにも被害者がいるのかもしれず、その犯罪の全貌は依然として計り知れないのだった。当節は情報統制が厳しく、市民に詳しい実態が知らされていないことも、恐怖を煽る要因になっていた。
「だからゴメンなさい。アレはまた今度、外出許可が下りたときになるけど……」
 いいって、いいって、と青年はニコニコと両手をふった。
 アレ、というのは都心のさるカフェーの名物で、婦女子に大人気のドーナツのことだった。カフェー二階の女性専用室でしか供されていないので、甘い物好きのワンのために、リナが求めてくる約束だったのだ。
 むしろ気の毒そうに肩をすくめながらワンは、そうそう、とつけ加える。
「支配人が顔を出せって言っていたよ」
「そう……ありがとう」
 リナはウィンクを残して、その場をあとにした。
 支配人の小屋は、敷地の一番奥だったので、中央の大天幕を突っ切ることにした。
 今興行の主な演し物ビッグショウは、曲馬団サーカスだった。不景気の昨今、リナの所属する精華興行団フラワー・カーニヴァルは、単独興行を避け、〈赤磐曲馬団アカイワ・サーカス〉との協同興行を企画した。大天幕の中では、本番に向けて芸人たちが稽古をしているはずだ。
 幾重にも幕扉に区切られた通路を通り、すり鉢状に設営された桟敷の底に出た。案の定、中央の舞台リングでは、道化師クラウンが玉乗りの練習をしており、端では大道具係が始めの番組に使う支柱を立てていた。頭上では、天使か妖精めいた姿の鞦韆ブランコ乗りたちが、軽業の確認をしている。彼女たちの何人かの翼は、自前である。鞦韆ブランコから落下した娘が、地面に落ちる寸前に、間一髪、本物の羽ばたきで宙に浮くという流れが、お約束なのだ。
 忙しげにたち働く仲間たちを横目に、裏手に回った。道具置き場を抜け、楽屋口から外にでる。そこには、ずらり、とカーニヴァルの専用貨車が並んでいる。道具類の貨車と動物たちの檻が入った貨車のあいだを抜け、目的地についた。
「「お入り」」
 ノックをすると、銀鈴を鳴らしたような可憐な声が中から響いてきた。リナは支配人用の貨車へ入った。
「おや、お前かい」
「早かったね」
 ほとんど同じ声が、微妙に少しだけずれて耳に届くのは、酩酊感のような効果をもたらす。
 派手な垂れ幕で覆われた貨車内の中ほど、二つ並んだ肘掛け椅子に、まったく同じ顔、同じ服装の女が座っていた。精華興行団フラワー・カーニヴァルの支配人は、キンモクセイとギンモクセイという名の双子の老嬢である。両人とも、まるで時代劇から抜け出してきたようなクラシックなドレス姿で、片方はモヘアの深紅の布地に金色の縁飾り。もう片方は、濃い緑色の地に、同じく金で縁どられたドレスをまとっていた。服の色以外、しわの刻まれた尖った顔立ちといい、脂気のない銀髪をまとめた髪型といい、まったくの相似形なのだった。
「そんなとこに突っ立ってるんじゃないよ」
「まあ、お座りな」
 同時に喋って、同時に顎をしゃくった。
 リナは、客用の天鵞絨びろうど張りの丸椅子に、恐る恐る腰掛けた。
「お召しとうかがいましたけど」
 老嬢たちは、ガラス玉のような目をむけた。
「さっき、お前をたずねてきた者がいてね」
「ちょうど出てすぐ後なのだけど」
「わたしに? 誰でしょう?」
「男さ」
「名前は言わなかったね」
「目つきの鋭い、図体の大きな男さ」
 男、ときいてリナは我知らず身構えた。それを見て取って老嬢たちはつけ加える。
憲兵ジャンダルム、ではなさそうだったけどね」
「灰色の上っ張りを着てたよ」
鳥打帽ハンチングを被っていた」
「吊るしの安物さ、上物じゃあなかった」
「ありゃ、特高だね」
「違うよ。衛生局さ」
「いずれにしても、剣呑な奴らさ」
「お前の行き先を訊かれたよ」
「「リナ、なにをやらかしたんだい?」」
 最後の科白はまったく同じ文言だった。完全にシンクロしていた。ガラス玉に似た四つの目が、ギラリ、と底光した。
「なにも」
 そう、自分は何もしていない。だからそう言うだけで精一杯だった。本当にリナは何もしていかなかった。ーー今はまだ。
「面倒事はごめんだよ」
「興行には禁物なんだ」
「人気商売だからね」
「明日が初日なんだ」
「お願いします。馘首くびになんてなさらないでください。ここしか行く宛てがないんです。本当にご迷惑はおかけしません」
 なるたけしおらしくみえるように、頭を下げた。半ば本心でもあった。
 双子は口をつぐんでいる。いま顔を上げたら、あの四つのガラス玉が、値踏みするようにじっと、リナを見据えているに違いなかった。やがて二人は口を開いた。
「ーーま、すぐにどうこうしようってんじゃないさ」
「そこまで人非人じゃないさね」
「人間じゃない奴腹を遣ってるのにね」
「善い異族は死んだ異族だけさ」
 くつくつくつ、と二人はそろって忍び笑いをした。
 そのあからさまな侮蔑に、一気に肝が冷える。リナが見た目どおりの人族でないとしれたら、どうなってしまうのだろう。親切ごかした慰留もどうせ、当局に引き渡す前にリナの素性を調べ、どれだけ自分たちの利益になるか吟味してからにする腹づもりに違いなかった。そして、なるたけ値をつり上げてから売りつける。それくらいの抜け目のなさはある女たちだ。
「ありがとうございます。感謝いたします」
 もちろん、そんな考えはおくびにも出さずに、リナは殊勝な様子で感謝をあらわした。彼女たちも、リナを信じてなどいなかったろうが。
 貨車のドアを開けて退出すると、キャッという可愛らしい声と鉢合わせた。
「ヘッダ?」
 洗濯物入れを胸に抱えた、おさげ髪の女の子が、目をパチクリさせていた。
「ゴメン、ぶつからなかった? 大丈夫?」
 リナは、口許をほころばせた。
 ヘッダはカーニヴァルの下働きの女の子で、やせっぽちで、そばかすが目印のおとなしい娘だった。占い小屋の助手をしているが、物覚えがよくなくて、いつも叱られたり、からかわれたりしている。
「ううん、大丈夫よ」
 ヘッダが首をふると、人参色のおさげ髪が、そこだけ別の生き物みたいに跳ねた。目じりのさがったアイスブルーの瞳が、いつもオドオドと泳いでいる。挨拶しあう程度の仲だけど、リナはヘッダを、素朴でやさしい性格の娘だと思っていた。
 支配人の汚れ物を取りに来た彼女に道をゆずりかけて、思いついて訊いてみる。
「ねえ、ヘッダ、きょう外からここに来た男の人を見なかったかしら」
 彼女はいつも、コマネズミのように構内を行ったり来たりしているから、リナを訪ねてきたという男を、目撃したかもしれない。ヘッダはいつものように、少し怯んだ様子をみせたが、やがて小さくうなずいた。
「……なんで知りたいの?」
 その反問には、やや虚を突かれた。
「別に。なんとなく、ねえ、どんなだった? 怖い感じ? ハンサム?」
 冗談めかして言ってみる。女の子同士の暇つぶしに聞こえただろうか。ふうん、と納得したような、していないような相づちで、ヘッダが答えた。
「おっきな人よ。ワンさんほどじゃないけど。それに目つきがとても鋭いの。まるで昔話の悪いオオカミみたいだった」
 リナがうながすと続けて、「髪は灰色だったわ。でも年寄りじゃなかった。元々そういう色なのね」
「よく見ているのね」
 なるたけ感心したように言う。一人前に扱われたからか、彼女は頬を赤くさせた。そして、とっておきの秘密を打ち明けるように声をひそめた。
「あの人、たぶん、人族じゃなかったわ」
「人族じゃない? 異族ってこと?」
「そうよ。きっと何かの獣人じゃないかしら」
(ーー獣人?)
 いくらなんでも眉唾だ、とリナは胸のうちでひとりごちた。異族の官憲など聞いたことがないからだ。
「ねえ、その人、街でリナを見初めたんじゃないかしら。それで人族のふりをしてここに来たのよ」
 瞳を輝かせ、うっとりと話すヘッダにリナは苦笑する。
 平凡な人族の「わたし」と「高貴な野蛮人」の異族という取り合わせは、流行りの恋愛小説の王道なのだ。きっとそうよ、と言いつのったヘッダが、ふいに言葉を途切れさせた。瞳がすがめられた。その眼差しには、覚えがあった。路面電車で出会った少女と同じ目。
「リナってば、あなたひょっとして……」
 今度もヘッダは言葉を途切れさせたが、そのわけはドアの向こうから、誰だい其処で油を売ってるのは、という支配人の叱責が飛んだからだった。
「でもあたし、リナが何であっても構わないわ。カーニヴァルは家族だもの。ここには差別なんてな……」
「早くおしったら!」
 支配人の声が甲高くなる。イライラの度合いがましているのだ。 
 とたんにヘッダの目に、いつもの鈍重の膜がかかたようだった。彼女があわただしく貨車のドアをノックする。それをしおにリナは、その場をあとにした。
 ふり向かずに歩き去ったが、ヘッダが自分の正体に薄々だが気づいていることに、慄然となっていた。
 やはりここも自分の居場所ではなかった。早々にふけなくてはなるまい。

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