いくえさん

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名前のない書物(第三十六回)

螺旋【伍】    意識をとり戻してまずはじめに感じたのは、強烈な咽喉の渇きだった。幾日か前までは飢餓感が勝っていたのだが、あっという間にとってかわられてしまっていた。  次に意識にのぼったのは痛みで、その源は主に背中だった。独房とは名ばかりの、窮屈なコンクリートの棺桶に後ろ手に縛られたまま横たえられ、不自然な体勢を長時間強いられてきたせいで、凝りの塊が、疼痛が背中にこびりついていた。ほんの少しでも姿勢を変えようものなら、それが飛びあがりそうな激痛になる。  そしてーー最後に感

    • 名前のない書物(第三十五回)

      図書館13、    ワシリ・ザロフ警部は呆気にとられた表情だったが、それはこちらも同じであった。少なくとも、ぼくは完全に意表をつかれていた。というか混乱していた。スウが姿を消したとおぼしき先に、捜索を頼んだ相手がいるなんてことが、あるだろうか? 「おいっ、貴様らそこで何をしている!」  怒号とともに警部が、デスク・チェアから弾かれたように立ち上がった。いち早く我に返ったようだった。そしてこちらに向き合ったときにはすでに、手妻めいた鮮やかで、特殊警棒を取り出していた。いかにもプ

      • 名前のない書物(第三十四回)

        螺旋【肆】    都心の一等地にあるそのナイトクラブは、当今の統制下にあっても大入り満員の盛況っぷりだった。それもそのはず、高級将校や裕福な資本家、旧貴族階級、政府高官など上流階級しか出入りできない高級クラブで、そこでは巷の物資不足が嘘のように、ふんだんに盛られたオードブルも、上等な酒やシャンパンも、ゆったりと流れる生演奏も思いのままなのだった。  クリスタル・ガラスの装飾電燈の下、蝶ネクタイを小粋にしめたウェイターが、銀盆に香りのよい葉巻を乗せ、フカフカのソファに沈み込んで

        • 名前のない書物(第三十三回)

          図書館12、    〈扉〉の先にあったのは、小さな部屋だった。開くと同時に照明がついた。少し赤みがかった、柔らかい光だ。おかげで中の様子がわかった。  広さでいえば、ぼくのアパートの六畳間ほどだろうか。天井と壁の四面は木目調の内装で、床にだけ臙脂色の絨毯が敷かれている。調度品は一つもない。くつろげるような場所には思えないし、一見して、何のためのスペースなのかも判断できなかった。  コシロが率先して入室し、ぼくが後から続いた。  とーー背後でパタンと軽い音がした。図書館側の隠し

        名前のない書物(第三十六回)

          名前のない書物(第三十二回)

          螺旋【參】    割り当てられた天幕の幕扉を開けて、中に入った。  長方形の天幕は、垂直の壁が途中から斜めになって、三角屋根になっている。中には仮設ベッドが四つ。つまり四人部屋だ。二つのベッドが埋まっていた。横になっている女たちはポーズ・ショウーーきわどい恰好でなまめかしい姿勢をとるーーの人形役で、出番が晩からのために昼間は休んでいることが多い。昼夜逆転の生活サイクルになっているのだ。空いているのは、鞦韆乗りの娘のベッドだった。  巡業見世物一座の面々には、街中の安宿に泊まる

          名前のない書物(第三十二回)

          名前のない書物(第三十一回)

          図書館11、    久しぶりに、アルバイト先に顔を出した。何より生活がかかっていて、そうそう休んでばかりいられないのもある。  朝から夕方までの昼勤シフトに入って作業したが、正直なところ、心ここにあらずな場面が幾つかあった。それに気づいて、何とか集中しようと努める。怪我をしたりさせたりしてクビになっては、元も子もない。  幸い仕事はルーティン・ワークなので、シフト終りまで何とかこなすことができた。倉庫内を、段ボール箱やプラスチック製の折りたたみコンテナを運んでウロウロしたり、

          名前のない書物(第三十一回)

          名前のない書物(第三十回)

          螺旋【貮】    表通りを避け、ひたすら裏道を巡って、掛け小屋にたどり着いたときには、もうとっぷりと日は暮れていた。  そこは、下町のただ中にぽっかりと開いた空き地だった。旧い海賊処刑場の跡地だった地所で、近代的な高層建築の並ぶ中心部とは違い、平屋の民家が軒を連ねる一郭にある。周囲の茶色い絨毯めいて広がる町並みには、毛細血管のように縦横無尽に路地が走っている。ところどころに突き出た尖塔は寺院のもの。掛け小屋のあるの広場も、寺院の敷地の一部だった。  明日は興行の初日であった。

          名前のない書物(第三十回)

          名前のない書物(第二十九回)

          図書館10、    ユウタ・サクマは、南東北の大学に通う学生だった。ある旧いアニメの熱烈なヲタクで、そのアニメのキャラを使って小説を書くという、とことん古風な二次創作を趣味にしていた。紙でしか残っていない旧世代のアニメ雑誌を求めて、渦巻町にやって来て、消えた。    マイ・タシロは、高校の課題に取り組んでいた。彼女は、同じ題材で、AIに書かせた小説と自分が書いた小説を比較して、分析するレポートを作成していた。自宅アパートの隣で工事があり、騒音から逃れるために、たまたま図書館を

          名前のない書物(第二十九回)

          名前のない書物(第二十八回)

          螺旋【壹】    奇妙に甲高い、告死婆の咽びのような警鈴が、唐突に響きわたった。反射的に路面電車は、ジリリリリン、とけたたましい鐸の音を立てて、急制動をかけた。  吊革につかまっていた乗客たちが、勢いを殺しきれずに、いっせいに傾いた。隣の紳士の肩がリナの肩に触れ、リナもまた、板張りの床にしゃがみ込んだ少女に躓いた。  車輛は、咳き込むように断続的に震え、止まった。  横倒しになった乗客たちで、車内は惨憺たる有様だった。分厚い外套の老婆がうめき声もらし、職人風の男が悪態をついて

          名前のない書物(第二十八回)

          名前のない書物(第二十七回)

          神殿Ⅸ.    大巫女であるわたしを含め、地下迷宮の奥底に〈何〉があるのか、本当のところを知る者はいない。そのことを、まざまざと思い知らされていた。  わたしはいま、〈ルナルの丘〉の地下深くに潜んでいた。正しくは、閉じ込められている、と言うべきであろうが。   *  アグラーヤ帝国の侵攻は、考えていたよりもずっと神速であった。わたしたちの、いや、わたしの見立ては、かなり甘かったと言わざるを得なかった。  マナンの死が王宮に伝えられた翌日には、早くもヤン河流域は、混沌の渦に突き

          名前のない書物(第二十七回)

          名前のない書物(第二十六回)

          図書館9、   「何なんですか、あの人たちは!?」  〈占い師〉の居室を出るとぼくは、辛抱できずに爆発してしまった。三姉妹は終始かしましくわめき続け、意味不明なたわ言をごたいそうに並べただけだった。スウを見つける手がかりになったとは到底思えない。時間を浪費しただけだ。 「まあまあ」  息巻くぼくを、後ろからついてきた母君が、なだめる。往路と同じく、センサライトで、暗い廊下に光と闇が交互に作り出されている。 「ああ見えて彼女らは、事情通なんだ。訪ねておいて損はない。それに、帰り

          名前のない書物(第二十六回)

          名前のない書物(第二十五回)

          らせん【拾參】    リテル君は、おうちにむかって走りに走っていました。  夜はすっかり明けて、町のはしっこに、キラキラしたバラ色のひかりが、のぼりはじめています。星が、反対っかわに、どんどんおいやられています。  リテル君は、発電所から命からがら抜けだすことができました。うんよく生きのびていた、カッペロやブリレたちG**別動隊のメンバーにたすけられ、つれ出してもらったのです。  このときのG**別動隊のかつやくは、それだけでひとつの冒険ものがたりになるほどです。いずれご本に

          名前のない書物(第二十五回)

          名前のない書物(第二十四回)

          神殿Ⅷ.    暗闇の底で、うずくまっている。うちひしがれている。  あのとき事態は風雲急を告げており、わたしはあわただしく手立てを打たねばならなかった。そしてこのとき下した幾つもの決断が、さらに別の事態を否応なしに引き寄せていくことになる。わたしたちの選択によって織り上げられた世界の紋様は、わたしたち自身にはわからない。それを見ることができるのはただ、世界の外側に立つ者のみである。たとえば神々であるとかーー。  さて、後のわたしの運命を決定的に変えてしまった出来事は全て、人

          名前のない書物(第二十四回)

          名前のない書物(第二十三回)

          図書館8、    〈市電〉の車窓を流れる景色が、ひどく虚ろに映った。ぼくは、コシロ母と会話をする気力もなく、黙り込んでしまっていた。うちひしがれ、意気阻喪していた。  もしスウが、自らの意思で誰かと(恋人と?)一緒に暮らすために、この町から、ぼくの前から消えたのだとすれば、果たして彼女の行方を捜すことに、どれほどの意味があるだろう? むしろ迷惑千万ではないだろうか?  一度だけぼくは、スウに過去のこと、どこで生まれて育ち、誰とどんな暮らしをしてきたのかを訊ねかけたことがあった

          名前のない書物(第二十三回)

          名前のない書物(第二十二回)

          らせん【拾貮】    そこに降り立つなり女には、四号鉄塔がどこに建っているのかが感ぜられた。  〈降り立つ〉というのは譬喩である。実際に女が、どこかの空間に〈立って〉いるかどうかは、現象をどう捉えるかの角度によって異なる。円錐の切断面が、切断の角度によってさまざまな形に見えるように。  同時に〈建つ〉というのも譬喩である。物理的に、ある場所に鉄塔が屹立しているわけではない。しかし四号鉄塔が、ある〈場〉を占める〈現実〉の一つであることは、間違いなかった。  住所で言えばそこは、

          名前のない書物(第二十二回)

          名前のない書物(第二十一回)

          神殿Ⅶ.    真っ先に頭をよぎったのは、誰が、どうやって、という疑問だった。誰が、はもとより、どうやって、が重要なのだ。この大神殿の奥で、何者にも見とがめられずに凶行をなすのは、容易いことではない。  マナンの喉は、無惨に切り裂かれていた。石榴のように開いた傷口からは、まだじんわりと鮮血が滲み出て、鮮やかなはずの織り布を、朱殷一色に染めている。生臭い金気が、空気に混じっている。わたしは戦や武芸に明るくはないのだが、あの屈強なマナンが一刀のもとに頸を断たれているように見える。

          名前のない書物(第二十一回)