にしのとりかえばや(第三話)

にしのとりかえばや(第三話)

二、
 夜明けの鼓《こ》が、ホーロンに鳴り渡る。かん高い、軽快なその響きが三百に達すると、夜間、閉ざされていた城市《まち》の門扉《もんぴ》が開かれ、城内を訪れる隊商や、どこかへ旅立つ人びとの波が生まれる。城市《まち》はたちまち活気づく。
 各里坊でも、触れ役のよく通る声に、煮炊きする音や、動き出した家々の物音が混じり、朝が始まるのだった。
 まだ爽やかな涼しい時刻のはずだのに、目覚めたときのサラの気分は、最悪だった。まるで自分の上にだけ、厚い雲が垂れ込めているように思える。
 泣きすぎて、頭が重く、まぶたの裏にかすかな痛みがあった。吐き気がして、喉《のど》が痛かった。
 しばらくグズグズと先延ばしにしていたが、やがてあきらめて、毛織りの上掛けをのけた。牀《ベッド》からおきだした。
 居間ではジナが、登城前のジクロに朝食を給仕していた。気まずくはあったが、挨拶をして席についた。すぐにジナがサラの分を運んできた。
 「お父様は」と訊くと、「もうお出かけになられました」という返事。
 ジナは何か言いたそうな顔を向けたが、結局それをのみこんで厨房に戻っていった。
 ジナの出してくれたヤヤ(ひきわり小麦のミルク粥)を味気なく口に運んだ。
 正面のジクロがちらり、とこちらをうかがったのが分かった。少しの逡巡の後、話しかけてきた。
「ゆうべのこと、まだ怒っている?」
 子どもっぽいとは思ったが、反応しなかった。
 怒っているみたいだね、とため息をつくと、うつむいて押し黙った。ジクロの悄然《しょんぼり》としたさまに、感情がかきみだされる。
「でもね」とジクロは真剣な表情になった。「昨夜の話はじっくりと慎重に考えて欲しいんだ。これは兄としてというよりラムルの親友としてお願いするよ」 
 聞きたくなかった。しかしそれ以上に、思いがけない言葉に目が丸くなった。てっきり、憤慨したラムルがその場で白紙に戻したとばっかり思っていたのだ。
「あのお話は、なくなったのではないのですか」
 恐る恐るきく。
「いいや。ラムルはもう一度、きちんと話がしたいって」
「ですが、あのような……」
 自らしでかしたこととはいえ、急に不安になる。
 士族は体面を重んじる。自分の顔に泥を塗った相手を家に迎え入れることなど、ふつうは考えられないし、万が一そんな噂が広まったらラムルの面子も丸潰れである。そうまでして、縁談をすすめなければならない理由があるとは思えなかった。
 サラが疑問をぶつけると「そんなの決まっているじゃないか」と呆れた調子でジクロは返した。
「それだけサラのこと想っているんだよ」
「……」
 ラムルの無邪気な言葉に、絶句する。口の中がカラカラに渇いていく。もっとも言ってほしくなかった口から出た台詞だったからーー。
 ポルト水の入った素焼きの壺を持ったジナが、姿を現した。昨日のものとは違い、皮ごと潰して絞った果汁を、水と蜂蜜で割った飲み物である。盃を並べるジナから、なんとなく顔を背けてしまう。
「断っておくけど、昨夜のこと、ラムルは何も知らなかったんだよ。細工をしたのは父上と僕だ。ラムルの反応は、予想外だったけどね」
(ーー謹んでお受けします)
 即答したラムルの声が蘇る。胸が痛くなる。
「確かに不意打ちみたくなってしまってすまないと思っている。でも、父上も僕もジナも本当にサラのことを思ってやったことなんだよ。それだけは信じて欲しい」
「だからといって人を騙してよいことにはなりませぬ」
 ごもっとも、とジクロは身をすくませた。そうしながらも顔は笑いを含んでいる。
「昨夜、父上はサラが母上に似て頑固だっておっしゃっていたけれど、僕はジナの意見に賛成だな」ジナに視線を向けた。「サラの頑固なところは父上にそっくりだ」
 後ろでジナが吹き出す気配がした。
 サラは憮然となった。
 朝食の後、ジクロと連れ立って出ることにした。玄関でジナに呼び止められた。
「どちらへお出かけでしょうか」
 不安そうに言う。
「武館《どうじょう》に」
「それでは私もお供いたしましょう」
「いいわ。その方が叔父様も気を使わなくて済むでしょうし」
「そうでございますか」
 ジナが肩をおとす。さすがに気がとがめた。
「帰りはちゃんと暗くならないうちに戻ってきます」
 言い置いて邸第《やしき》をあとにした。
 ホーロン女性は、騎馬に適した装束《みなり》をするので、男装しているように見えなくもない。今日のサラは、御空《みそら》色《いろ》の左衽(左前)の上衣に、細身の褲《ズボン》を穿いている。足許《あしもと》は動きやすい革鞾《かわぐつ》だ。
 日差しは力強く、空は服に似て青かった。天上に居座った太陽が、早くも酷暑期の気温を、じりじりとつり上げていた。
 参内《さんだい》するジクロと二人づれで歩くこの朝のひとときを、サラは心ひそかに楽しみにしていた。
 元の世界ではかなわなかった、登校風景のつもりで。
 大通りに出たところで、ジクロと別れることになる。大通りはかなりの幅があって、道というよりは広場に見えた。真っ直ぐ進むと宮城。左に折れると、ベルン修練場のある里坊にいたる。登城する士族たちや、荷馬車を引くもの、背嚢の旅人などが、引きも切らず行き交っていて、せわしない朝の気配であった。
 ジクロが真剣な声音で言った。
「なあ、夜に出歩くのだけはやめた方がいい。ちかごろ何かと物騒だし」
 城市《まち》にわだかまる不穏な気配は、サラも感じていた。詳しくは知らないが、先日も辻斬りがあったという。
 政《まつりごと》に関わるというそれは、下々には関り合いのないことなれど何らの拍子に巻き込まれて、とばっちりを食わないとも限らない。ジクロはそれを心配しているのだった。もっともなので、素直にうなずいておく。
 ジクロはにっこり笑うと、片手を上げて去っていった。
 サラは後ろ姿が人ごみに消えるまで見送った。
 いとしい漢子《おとこ》の姿を。


 今の暮らしを捨て去って、まったく別の場所で、まったく別の人生を送る。そんな甘美な夢をみたことのない人間がいるだろうか。
 かわり映えのない、苦痛に満ちた日常。
 先のしれた未来。
 息苦しく、ぬるま湯めいた絶望から脱出して、どこかにある「本当の自分」に会いにゆく旅に対する強烈な憧れを、守本沙羅も持っていた。
 地方都市の、お金のない、特技も成績も容姿もすべてがクラスで中の下の女子高生。付き合う相手も好きな相手もいなく、周りにやんわりと強制された「地味で真面目でたまに天然」キャラをひたすら通しつづける日々。
 そんな生活からすれば、恋の悩みなど贅沢ごとなのかもしれない。
 ほぼ唯一の友だちだった伊藤麻友ならば、たとえ沙羅のような境遇に置かれても、まえむきに、むしろ目を輝かせてもうひとつの人生を謳歌したかもしれない。しかし、結局のところ、麻友は麻友、沙羅は沙羅だ。
 浮き立つ心よりも、胸苦しさに押しつぶされそうな自分、そんな自分をサラはもてあましていた。


 ベルン修練場は、巷曲《よこちょう》の裏通りに面していた。
 母屋ではなく、併設された離れ家に向かった。おとないを入れると、寝惚けまなこの男が現れた。
 年のころは三十後半、いたずらっぽく輝く少年のような目を持った男で、可兌《カタイ》の古装のような、丈の長い深衣《きもの》をまとっている。不思議なことに、何時、どんな時刻に会っても眠たげな顔をしているのだ。
「おはようございます、叔父上。お邪魔してもいいですか」
 ふああ、と返事代わりの気の抜けた欠伸を返した男は、アルキンといい、亡くなったサラの生母イリアの末弟だ。
「おはよう、サラ。鍵を出すから、中に入っていてくれ」
 そういって叔父は、サラを室内に通した。離れは、修練場の書庫として利用されている庵のような小屋で、今は叔父が、修練場の鍵番を兼ねて寄宿していた。
 アルキンは母の一族きっての変わり者である。冷飯ぐらいの四男なのをいいことに、これといって役勤めをするでもなく、興味のおもむくままに諸国を旅して、各地の古文書や文献を渉猟している。どこにそんな金銭的余裕があるのか首を捻るが、どうやらその手の好事家の信頼が篤く、たびたび銀子《かね》で雇われ探索行をしているようだ。それに不思議なところに人脈があって、妙に各方面に事情通でもある。
 書庫に足を踏み入れるのは初めてではなかったが、普段は用のある房室《へや》ではない。物珍しく、ついキョロキョロしてしまう。
 手前に、小さな書見台と榻《ながいす》がある。薄掛けが畳まれて置いてあるのを見るとどうやらここで寝ているらしいが、いくら優男《やさおとこ》の叔父とはいえ、寝返りをうてば床に落ちてしまいそうである。その一画の他は書物で一杯だった。
 入り口のある面以外、奥と左右の三方に書棚がこしらえてあって、その他に、部屋の半ばにも書棚が二列、手前から奥へのびている。どの棚も、下から上までびっしりと書物がつまっていて、かなりの量の蔵書である。あいまにがらくたも推しこんである。
 書物のうちわけは雑多で、巻子本もあれば折本、冊子本もあり、表題をながめただけでも、武術や兵法書のたぐいばかりでなく、地誌から経典、物語までなんでもそろっているようだ。
 これらは、祖父、つまりガイウスの父が残した収集品だった。
 ベルン修練場は、名人と謳われ、先代太守の剣術指南役をつとめた祖父ラウド・アルサムのひらいた武館《どうじょう》である。ホーロンの修練場の中では新参の部類に入る。しかし抱えている弟子の数は、他にひけをとらなかった。これは即ち、祖父の剣名の高さを表していると言える。
 灰鷹の一撃《カルロッツア》。
 諸国を放浪し、合戦や仕合にのぞむこと数十余り。そのことごとくに打ち勝ち、遂に生涯無敗。
 辺境の地ナリン砂漠にありながら、東は可兌《カタイ》、西はサクラムにまでその名を轟かせたこの偉大な剣士は、ガドカル古語に由来する異名とともに、生前から半ば伝説的な存在となっていた。
 もっとも、サラの記憶のなかの祖父ラウドは、いつも背筋をぴんとのばした痩せた老人でしかなかった。  
 祖父という人は、生涯剣術一辺倒であったにもかかわらず、諸国を巡ってくると、必ずといっていいほどその土地の書物を買い求めてくるという奇妙な性癖があったのだ。
「義兄上《あにうえ》やジクロは、元気かい」
 ガイウスと聞いて、昨夜が、まざまざとよみがえった。
 硬くなったサラの表情にさっしたのか、お元気そうだね、とアルキンは肩を竦めてみせた。
「珍しいね、こんな時刻に来るなんて」
 鍵を持ったアルキン叔父の後ろについて、修練場の母屋に向かった。
 修練場では毎日、早朝から朝稽古をしている。熱心な剣士たちは、登城前にこれをすませてから勤めにむかうのだ。奉納仕合を間近に控えた今日などは、たくさんの門人たちで賑わっていたに違いない。サラもここのところ連日かよいつめていた。今朝は別だったが。
「ちょっと気分がよくなくって」
 年配者相手なのに、自然とくだけた口調になってしまう。
「そいつはいけない。休みんでなくていいの」
「もう大丈夫です。すっかり元どおり」
 サラは笑ってみせた。
「そう。ま、仕合も大事だと思うけど、あんまり根をつめないほうがいいよ」
 叔父は、本当にサラを心配してくれている様子だった。こちらのサラは、多くのひとに愛されている。それが嬉しくもあり、反面、「守本沙羅」を哀しくさせるのだった。
 開けてもらった場内は、薄暗く、ひんやりとしていた。高窓から、くっきりとした輪郭を際だたせて、数条の光が差しこんでいる。
 自由に使って、といいおいて、叔父が退出する。サラは壁にかけてある木剣を、ひとふり手にとったが、右手にぶらさげたまま、構えはしなかった。
 ここに来たかったのは、稽古のためではない。昨夜の出来事を反芻したかったからだ。
(やっぱり……)
 ガイウスのしたことは騙まし討ちだったとサラは思う。ジクロやジナがなんといい繕《つくろ》うとも。でも。
 それと、ラムルに対する言い表しようのない罪悪感に似た気持ちは、別の問題だ。
(他人のせいにしては、いけない)
 胸の内で呟く。
 そう、自分の煩悶のわけは、ガイウスのせいではない。ましてラムルのせいでも、ジクロのせいでも。
 変わってしまったのは、サラなのだ。
 ラムルの飄々とした顔を思い浮かべる。なんとなく胸が温かくなる。
 ジクロの優しい顔を思い浮かべる。泣きたい気持ちになった。
 自分が、いつ、どのような経緯《いきさつ》でこちらの世界にやってきたのか。サラには、どうしてもそれが思い起こせなかった。
 覚えているのは断片的なイメージで、まばゆい光に包まれ、はげしい目眩と吐き気に襲われたことで、気がついたときにはすでに、こちらの世界にいたのだった。そしてその場には、狼狽した表情でサラの顔を覗き込む漢子《おとこ》ーージクロがいた。
 それは一年前の明け方のことで、夜明けの鼓が鳴り響くなか、誰かに肩をつかまれ揺り動かされて目を覚ますと、うつろに開かれたサラの目に、ジクロが飛び込んできたのだった。
 あのときは、突然の悲鳴に駆けつけるとサラが倒れていたので動転したよ、とあとでジクロにいわれたけれど、サラには、おぼろな記憶しかない。
 ただ、心を引き裂かれるような感情の奔流があったことは覚えている。
 おそろしく甘美な、ずっとそこに浸《ひた》っていたいような安寧《やすらぎ》と、自分が自分でなくなってしまうような不安がないまぜになった……言葉ではとてもあらわせない混沌。
 ともかく狂瀾のあとでようやく、頭のどこかから、家族やこの世界の記憶が押しよせてきて、サラは守本沙羅でいながら、サラ・アルサムになったのだ。
 そうしてーー。
 こちらでの暮らしを送るうちに、サラは気づいてしまった。
 自分がジクロに惹かれていることを。
 実の兄を好きになってしまったことを。
 ーーそれがサラの絶望。
 初恋は実らないもんよ、とロマンチックにいった麻友のセリフが、胸に刺さる。
(そんな素敵なものじゃなかったよ、麻友)
 サラはたしかなものを求めるように、木剣に力をこめた。
(ただの物質にーー剣になれたらいいのに……)
 木剣は、扱いなれたサラの手にしっくりと馴染んだ。
 サラはゆっくりと剣を構える。切っ先が、虚空に描いた相手の喉元にあうように、ぴたりと静止させる。
 深呼吸をひとつ。ふたつ。
 すると、周りの景色やさまざまな想念がすうっと遠のいていった。
 守本沙羅は、漠然と「記憶」というのは心、つまり脳にあるのだと思っていた。けれど、サラとして生きていくうち、人の体というのはそんなに単純なものではないと思い知った。「守本沙羅」に経験はなくとも、「サラ」としての体には、剣を学んだ感覚がしっかりと残っていて、修練も難なくこなすことができた。
 仮想の攻撃を浮かべると、自然に手足が反応し、受け返した。
 それは素早く動き回るはげしい型のはじまりで、サラは四方から迫りくる相手をかわし、体をいれかえ、急所を打った。
 一太刀ごとに、よぶんなものがそぎ落とされていく。
 握りしめた剣の感触だけが、たったひとつの確かなもののようだった。

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