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AIには書けまい

『アルジャーノンに花束を』の
レビューを投稿しました。

私にとっては、
いい作品を堪能し、
感想を綴っている時は、
何にも代えがたい至福の時です。

日常生活の嫌なこと、
あんなこと、こんなこと、
一切合切を忘れて、
夢中になれるんですよね。

そこには「自分」すらも
存在していない気がします。

こういうのを
無我の境地というんでしょうか。

そういうゾーンに入って
書けた文は、
自分でも満足感が違います。

そうそうあることではないんですが、
たまにそういう時があります。

長い間、文を書いていると、
「いつか文を書くのが
 楽しめなくなるのでは?」
と不安に思う瞬間もあるんですが、

読んでくださる方々もいる
おかげもあってか、
今のところ、そういったスランプには
陥ったことがありません。

いや、もしかしたら、
あったのかもしれないですが、
忘れているだけなのかも
しれないですね。

私は自分で文を書くのは
得意な方だという自覚はあるんですが、

社会的には、こういう能力の需要が
かなり減っているのではないか、
という危惧も感じています。

実際、近年は AI の台頭もあって、
文を書くのは AI にやらせた方が
速くてコスパがいい、
といった論調もありますね。

そういう社会を見るにつけ、
私のような文を書く力は
徐々に求められなくなっていくのだろう、
という気もしています。

実際、そうなんですよね。

ChatGPT なんかを使ってみると、
ちょっと投げかけるだけで、
たくさんの情報を提供してくれます。

この「まとまった量」を「短時間」で、
というのが AI の
大きな魅力でもあるのでしょう。

一方で、私が書いた
『アルジャーノンに花束を』の
レビューの記事は、

それを書くために、
多くの時間を費やしています。

例えば、作品を読むのに
費やした時間は約1か月です。
(7月初旬に読みはじめ、
 7月末に読み終わった)

ずっとその本ばかり
読んでいるわけではないですし、
本気になれば、その半分の期間で
読み終わることもできましたが、

やはり、そこは私の
「作品をじっくり堪能したい」
という思いもあって、
時間をかけて読んでいます。

そして、感想を書くための下準備、
記事を書くのに、
2時間程度の時間は
費やしました。

『アルジャーノンに花束を』は、
文庫版で500ページ
近いボリュームですから、

これくらいの中身の作品であれば、
いつもの私のペース、
きわめて順調なケースだったと
思いますね。

でも、これを ChatGPT なんかに
書かせたら、

ものの数秒で同じくらいか、
それ以上のボリュームのレビューを
書いてくる気がするんですね。

(試してないので、
 実際のところはわからないが)

そう考えると、
単純に「速さ」と「量」で捉えたら、
私はなんと無益なことをしているのか、
と思う人もいるでしょう。

単純に「数」で捉えたらですよ。

でも、そういう風に考えてみても、
私は AI にできないことを
やっているなぁという実感があります。

というのも、AI は自分で
何かを感じることができないんですよね。

「好き」とか「嫌い」もなければ、
「楽しい」とか「悲しい」といった
感情もないんです。

これは極めて当たり前の話ですけど。

私は人間なので、
常にそういった感情を抱えながら、
生きています。

『アルジャーノンに花束を』を
読みながらも、

現実の生活があり、
そこにはさまざまな悲喜こもごもの
「体験」があるわけなんですよね。

そういった「体験」が
作品の中の話と
重なる部分があったり、

もしくは、まったく
自分の発想にはないような
未知の部分があったりもします。

それらと自分の体験を
照らし合わせながら、

時には共感したり、
驚いたりしながら
作品を堪能しているわけです。

レビューは、
そういった過程を経て、
私の頭の中から出てくる
アウトプットですから、

これは AI にはマネできないだろうな
という気がするんです。

あるいは、私と同じような
レビューが書ける AI を作るとしたら、
「私」という情報をすべて持った
AI でないと成り立たないでしょう。

そう考えると、
私は無益な文を綴っているようで、
AI には決してマネできないものを
書いているんだなと思いました。

(できないこともないが、
 私という情報をすべて落とし込むには
 相当なコストがかかると思われる) 

だからこそ、これからも
私は作品を丁寧に味わい、
それを言葉にすることを
続けていきたいです。

それが「私」だと思うので。

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