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和紙の染色職人として活動中!この伝統と技術を絶やさないために。


高知から3度も来てくださった社長の
“職人を大切にしたい”という熱意がうれしかった。

房安苗穂美さん

高知県日高村の地域おこし協力隊2年目(2022年10月現在)。実家である鳥取県の製紙会社で20年間和紙の染色職人をしていたが、コロナをきっかけに廃業。その後、“ひだか和紙有限会社”の鎮西社長から直々にオファーを受け日高村に移住し、染色職人として活動中。

Q:協力隊になる前は何をされていましたか?
A:実家の製紙会社で染色職人をしていました。

私の実家は鳥取県の和紙の製紙会社でした。だからといって、子どもの頃から和紙が身近だったかと言われるとそういうこともなく、家業を継ぐのは兄だと思っていたので、和紙には全然興味はなかったんです。高校を卒業した後、関西圏の美容系の専門学校に進学し、化粧品会社に就職しました。

そこで10年ほど働いた頃、製紙会社を経営していた父が亡くなったんです。それから母や家族が少し心配になって、家族に何かあった時になるべくすぐ駆けつけられるところにいたいなと、仕事をやめて地元の鳥取に帰ってきました。

地元で新しい就職先を探していた時に、義理姉に「一緒に和紙の仕事してみんか」と声をかけてもらって。
「仕事が見つかるまでやってみようかな」くらいの軽い気持ちで、全く和紙の知識もないのに、染色のお手伝いを始めて…気がついたら20年たってました(笑)

Q:和紙の染色とはどのようなお仕事ですか?
A:染料を調合して紙を染める仕事。

ひとことで赤と言っても、紅色・茜色・えんじ色と無限にいろんな赤がある。その中で相手のイメージに合った色に染められるように、染料を調合して紙を染める仕事です。

例えば、ちぎり絵教室で使うキット用の和紙を染めることなどがありますね。絵の完成イメージの図案を渡されて、図案から相手の求めているものをイメージして、和紙を染めていくんです。ここの葉っぱの部分は、いろんな緑がまばらな柄に染めよう、晴れている日だから空はこの青色に染めようみたいな。

山中章弘さんという、全国で1位になった高知県出身のちぎり絵師の方の紙を染めたこともあります。山中さんは白と黒の和紙だけを使い、モノクロ写真かと疑いたくなるくらいリアルで力強い動物の作品を制作されています。

だからこそ、“黒”にものすごくこだわりを持っておられるので、その時は何種類もの黒に染めました。いろんな黒に染めた和紙を並べて、見比べて、微調整して、また染めて、見比べて、微調整する。それを繰り返しているうちに、気がついたら一日が終わるみたいな日もありましたね(笑)

Q:ひだか和紙の地域おこし協力隊になったきっかけはなんですか?
A:鎮西さんに「ひだか和紙で染色を続けませんか?」と誘っていただいたこと。

私の実家の製紙会社は3年前に廃業したんです。IT化が進み紙の需要が少なくなって来ていたところに、コロナで追い討ちがかかってしまって…
和紙の需要が高かったちぎり絵はどうしても娯楽の世界だから、時間とお金と心に余裕がないと離れてしまう方が多かったり、ちぎり絵教室は密になるからと開講されなくなったり、思わぬところで打撃を受けてしまったんです。

廃業すると決めた頃、ひだか和紙の社長の鎮西さんが日高村から6時間くらいかけて鳥取の私たちの会社までいらしゃったのが、きっかけでした。うちの製紙会社はずっとひだか和紙さんの和紙を仕入れ、染色していたこともあり、とても長い付き合いだったので気にかけてくださって。

その時に「どんどん和紙の職人さんが高齢化し、数が少なくなってしまっている今の時代だからこそ、職人さんを大切にしたいんです。房安さん、ひだか和紙で染色を続けませんか?」と誘っていただいたんです。

でもその時期は廃業が決まってから注文が殺到していたこともあり、納品を期日に間に合わせることで頭がいっぱいで、終わった後のことを考える余裕が全くなかったんです。もちろん鎮西さんに声をかけてもらったことに対して、うれしい気持ちもありましたが、すぐに「行きます」とは返事ができませんでした。

怒涛だった最後の仕事を終えた後、染色以外のことをもう一度してみようかなと、大阪に引越し仕事を探していた時期もありました。
そうやって私が迷っていたにもかかわず、鎮西さんはその後2回も私のところに足を運んでくださったんです。ご自身も“ものづくり”をされている方だからこそ「職人さんを大切にしたい。この技術を守って行きたい。」という熱意が伝わってきて、3回目に来てくださった時に「ぜひ、よろしくお願いします」と返事をしました。

Q:協力隊になる前は不安はありましたか?
A:もちろん、全くなかった訳ではありませんでしたが…

ひだか和紙の技術を残していきたいという気持ちの方が大きかったです。
高知県は日本三大和紙と言われている土佐和紙が有名で、数多くの和紙会社がありますが、ひだか和紙さんの世界一薄い和紙を漉(す)く技術ってここにしかない。そして、高知県の小さな村で漉いた和紙がヨーロッパまで届けられて、美術品を修復していることに感動しました。

これから先、和紙の業界はどうなるかわからない世の中で、私たちの家族みたいに廃業という道を選ぶ製紙会社もあるかもしれない。だからこそ、紙の伝統と技術を絶やさないために、ひだか和紙の今後の発展に尽くしていきたいと思いました。

Q:職人として大変なことや、しんどいことはありますか?
A:もう、たくさんありましたね(笑)

和紙の世界って職人気質の方が多くて、私はずっと「技は見て盗め。3年やって独り立ち、10年やって一人前、20年やって職人技、30年やって神業、継続は力なり。」とずっと教わっていて、その言葉の通り技術を体が覚えるまでは、かなり時間がかかるんです。

納得いく色になかなか染められない時や、お客さんのニーズに応えきれずクレームがきた時は、何度もやめようかなと思いました。

中でも1番しんどかったのは、染色を始めてから10年たった頃でしたね。「10年やって一人前」と言われているので、何か相談したいことがあったとしても「今更何を言ってるんだ」と言われるかなとか、10年も教えてもらってきていてこんなこと聞いたら師匠に対して失礼に当たるなと、考えてしまってなかなか相談ができず…かなりしんどかったです。

でも、ある時から自分が作ったものに対する嫌悪感って悪いものじゃないなと思えるようになったんです。自分が染めたものに納得してしまった時点で、それ以上のものは作れない。「もっとこうできたかな」とか「もっとこうしたかったのに」みたいな嫌悪感があるからこそ、更にいいものが生まれるんだと考えられるようになりました。

だから今まで自分が染めてきたものに対して、まだ納得したことはありません。「ちょっといいかも」と思っても、「やっぱりもっとこうしたい」という欲が出てくる。

で、私はまた葛藤と嫌悪感に悩むことになるんですけど(笑)そのおかげで、染色に対するモチベーションがここまで維持されているんだと思います。

Q:日高村にきて困ったことはありましたか?
A:水質の違いに困りました。

20年間染色してきたデータを日高村に持って来ていて、そのデータ通りの染料の調合で同じように染めても、鳥取の時と全く違う色に染まってしまうんです。
20年間鳥取でしか染めたことがなかったので、日高村に来るまで、水質で色が変わるなんて考えたこともありませんでした。
ここの水で思った通りの色に染められるように、また一から色作りをしています。日高村に来てから1年半経ちましたが、今も試行錯誤中です。

Q:日高村の魅力はなんですか?
A:日高村の魅力は人だなと思います。

全体的にいきいきしていて、楽しそうに生きているというか、それぞれが自分の個性を大切にしていて、周りに惑わされず、我が道をいく人が多い感じがします。我が道をいくと言っても、“我が儘”とかでは全然ない。近所を散歩されている方に挨拶をすれば、初対面だけど初対面じゃないみたいな感覚になって、すぐ打ち解けるし、私みたいに外から来た人に対しても警戒心がなく寛容で優しい方ばかりです。

Q:これからはどのような活動を行っていきたいですか?
A:次の世代を育てて、伝統を引き継いでもらうのが夢ですね。

職人の技術・伝統を残していきたいという気持ちが1番大きいので、今のうちに私が伝えられることは伝えて、新たな後継者の育成ができたらいいなと思っています。
後継者を育てるには、新しい人にこの業界に入ってきてもらわなければいけない。そのためには和紙の業界がさらに発展していく必要があると思っているので、今は詳しくはお話しできませんが、和紙を使った新しいものづくりを計画中です!

房安さんが活動中の“ひだか和紙有限会社”についてはこちらから
https://nosson.jp/recruit/post2021092901/


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