子は宝だけど友も宝だと今更大人になって思い知らされている。

人生が選択と行動の積み重ねで作られていくとして。
今現在の人生に悔いはほぼないし、過去に戻って何かをやり直したいと思うこともほぼない。
いつだって自分なりにやり切ってきたし、サボってしまった所も含めて自分自身がやり切れた範囲で出せた答えなんだと思っている。

過去の積み重ねが現在だし、現在は積み重ねた過去の答え。
きっとやり直したとしても同じ様な答えに辿り着くような気もする。

良くも悪くも一生懸命生きてきた自負はある。
嬉しいことも辛いこともラッキーなことも理不尽なことも良くも悪くも色々あった。
また過去に戻ってもう一度同じ様な浮き沈みを越えるのはしんどい。
選べるなら、もういい。
選べず必ず戻ってやり直せってことならやり直さないこともないけど自分から過去に戻るという選択はしない。

と言うか、細かい事はあんまり覚えていないけど今更もう一度何十年と人生をやり直すのはしんどい。
余命何年なのか何十年なのか百年以上あるのか分からないけど残りの時間だけで充分お腹いっぱい。

と言うか、自分の人生に満足してしまっているところがあって子供の人生の邪魔をしない、子供の人生を素敵にする、そっちへの意識の方が強い。
その為に自分自身もしっかりしなくてはいけないのだとは思ってはいるものの頑張るための主語が子供になっている。
もう自分は脇役で人生のバトンを子供に渡してしまっている感覚すらある。

軽んじて言うつもりはないが自分個人としてはいつ死んでもいいと思っている。
だがしかし子供が成人して独り立ちするまでは死ねないと思っている。

だからつまりは人生のバトンはまだ渡せないということか。
子供には子供が走るレーンがあって、私のバトンを渡すことが子供のゴールへ向かう道ではない。
そもそもバトンをいつ受け取るかそもそも受け取らないか、それは子供が決めればいい。
自分の人生の目的みたいなものを子供へ責任転嫁することがバトンを渡すことではない。
全てを分け与えるけれどバトンを渡すのはまだ先。
今はまだ私自身がバトンをより強く、美しく、素敵に磨き上げ続けなればならない。

子供が受け取りたいと思うバトンにする。
子供が受け取ると決めるその時まで。


子は宝だけど友も宝

「友達」を考える時に思い起こせば人生の選択の中で大きな分かれ道が3回あった。
最初は20歳頃に東京へ一人で引っ越した時。
次が30歳くらいで地元へ戻ってきた時。
3つ目は家を買った時。

いずれも住む場所が大きく変わった。

東京へ引っ越した時は、友達と距離が離れても会う頻度が減っても何も変わらないと思っていた。
地元へ戻った時には、自分が10年東京で過ごしている間に地元でも10年の時が流れていたことをあまり理解出来ていなかった。
それから家を買った時は当時の経済状況や仕事やなんだかんだあって地元から少し離れた場所を選んだ。

大なり小なり物理的な距離は会う頻度に直結する。
会いたければ会うし会いたくないから会わないんだろというのも分かるけど、近れば毎週会うし遠いから半年に一回会う距離感もある。
それを今、思い知っている。
恋人じゃなく友達でも会いたい時に会える距離にいるというのは大きなこと。

友達はいてもいなくても生きてはいけるけれど最近友達に会うたびに、人生を今以上に自分以上に彩ってくれる存在なんだと思い知っている。

友達は家族じゃないけど他人でもない。
気を許した友達は家族並みに信頼しているし、何かあれば守り守られたい。

もし人生をやり直せるとしたら家を買った時。
少し無理してでも、もう少し地元の近くに住みなおす。
じゃあ今からでも地元に戻ればいいじゃんとなってもこれはもう無理。

今の家はもう既に子供の地元になっていて、子供の友達が沢山近くにいる。
子供の人生を彩ってくれる友達達と我が子を引き離す訳にはいかない。
自分の我儘で子供の人生の邪魔は出来ない。

子供が楽しそうに友達と笑い合っている姿を見る。
ふざけ合っている姿を見る。
私にもいる家族には見せない顔を見せられる友達が既にきっといる。
私にもいる親以上に全てを許せる友達が既にきっといる。

子も宝だけど友も宝で、子の友も宝。

過去には戻れないように、変えられない選択がある。
これから先の行動でしか人生の答えは出せない。
そんなことを今更大人になって思い知らされている。

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