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【連載】“クソったれ”な日本の教育#7: 本質を捉えられない未熟な教員たち


「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。

前回の記事はこちら。
https://note.com/ikes822/n/n0e0b8f6e6b96

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5月末、山田基靖摺河学園長をお招きし、『グローバル&グローカル社会に求められる課題解決能力』と題した講演会を大学の授業の一環として行った。

現在、官民人事交流により外務省から派遣されている山田学園長は、もともと国連日本政府代表部を務め、SDGsの発足に現場で関わっていた方。まさに、「グローバル人材」のトップを走る超一流の国際人である。

そんな学園長が講演の最初に学生に問いかけたのは、次の質問である。

「SDGsの設定理念を記した『2030アジェンダ』を読んだことがありますか?」

この質問には、今日の教育に関する根源的な問題が示唆されているだろう。つまり、物事の本質を捉えるのに極めて重要な‶原書″について、教育はどれほど注意を払っているのか、という問題である。

アジェンダにしろ、新聞にしろ、書物にしろ、学生は原書に当たるという習慣がないという。しかし、それは学生の問題ではない。むしろ、学生の指導を担ってきた教員自身の問題ではないか。教員が原書に当たるという経験を積んでいないからこそ、学生にそれが教育として伝わっていないのではないか。

物事の本質を捉えないような教員に指導を受けた学生は、当然原書に当たるという習慣を持つことはない。「蛙の子は蛙」ならぬ、「蛙の生徒は蛙」である。仮に、「もっと本質を考えろ」などという指導をそんな人が行うなら、それはとてつもない自己矛盾であり、教育の恥である。

さて、今ここに、新聞を数社分毎朝読んだり、あるいは教育メソッドを教育学者の著書に求めたりするような教員はどれほどいるか。恐らくほとんどいない、というのが私の見立てである。

教員として当たり前の行動

ここで少し、私の話をしよう。先に断っておくが、これは自慢でも何でもない。ただ私は教員としての当たり前を遂行してきただけで、自慢にすら値しない話である。しかし、今私はまるで自慢話かのようにそれを語らなければならない。その現実は、どれほど教育が腐ってしまったかを表しているだろう。


私は、大学教員になる前は、新潟で高校の教員を務めていた。科目は英語。とある日、教科書に1970年代のバングラデッシュ大飢饉についての記述を見つけた。知識の無かった私は、教科書の記述だけでは飢饉の全体像がわからないと感じ、ムハンマド・ユヌスやマイクロファイナンス、あるいはバングラデッシュという国そのものについて調べ上げた。そうして初めて、教科書の記述について、真に「理解した」のだ。

同様のことは、アボリジニのとある民俗文化についての記述でも起きた。「右左」の概念がないという文化を持つその民族について、私は調べ、文献を読んだうえで、初めて納得した。


あるいは、こんなこともあった。生徒の集中力が続かないことに悩んでいた私は、小手先で叱るだけではダメだと感じ、動機づけに関する書物を読み漁っていたことがある。そんな私の姿を見て、先輩教員は、「本を読む時間があるならもっと生徒とたわむれろ」と言ったが、私はそれを無視した。たわむれだけで教育が成立するわけがないからだ。

書の実践を繰り返すうち、私の受け持つクラスのモチベーションは上がった。しかも、英語の授業だけでなく、かれらは運動会の練習でさえ本気で取り組むようになったのだ。私は彼らのモチベーションを維持する方法を教え、かれらもそれに応えたわけである。


改めて、言おう。決して「私はすごい」だとか「私は努力した」ということが言いたくて、これを述べたわけではない。むしろ、こんなことさえ出来ない教員に、己の未熟さを知らしめるために言っているのだ。

日本と北欧の違い

最近のトレンドとして、教員がより自由度の高い授業をやりたがるということがある。もちろん、それ自体は歓迎されるべきである。教育とは本来、画一的に行えるものではないし、学校は極めて現場主義的性格を持っているからだ。

しかし私は、今のまま教員が自由を獲得すれば、むしろ教育は劣化すると考える。


私が大学院生だった頃、恩師の一人が飲み会の席でこんなことを言っていたことが印象に残っている。ちなみに外交旅券でノルウェーとフィンランドを視察した大変優秀な学者である。その人によれば、北欧の国々は学校の個々の教員にかなりの教育裁量権を与えているという。

それを見て、日本の教員は、自分もそのようにやりたいと言うが、その先生曰く「実力が違い過ぎる」のだという。北欧の教員は揃って皆、かなりの教養人であって、多様な知識を持っている。ある者は教育学の博士号を持っていたり、ある者はラテン語を読めたりする。彼らは十分な休暇を持ち、それぞれが自分のスキルを高め、教育に還元してのだそうだ。私がこの話を聞いたのは25年以上前のことである。しかし、私の知る限り今でも状況は当時とさほど変わらないようだ。

一方、特に近年の日本の教員の中には、酷な物言いをするならば定員割れ目前の試験を突破しただけの未熟者が含まれる。そもそも休みの少ない教員がスキルアップを図ることは難しいし、教育の質を保つためには指導要領で教育内容を縛るしかないという考え方も真っ向を否定することはできない。

同様のことはドイツの高度中等教育機関、ギムナジウムでも見られる。ドイツとも関わりの深い私から見ると、ギムナジウムの教員の知識レベルは相当なものである。


もし日本で、授業の自由度が上がり、「アジェンダ2030」さえ読んだことのない教員が、SDGs教育を行うことになったら。想像するだけで恐ろしいが、あえて予想するなら、SDGsのゴール17個を暗記させて試験で問うという愚行に走るに違いない。

日本すごい神話

実はこうした懸念は、遡れば2009年頃から持っていた。当時の私は研究・教育調査のため、東南アジアを回っていた。その頃の東南アジアは、日本との経済格差もまだまだ大きく、貧困問題も今より深刻だった。ただし、若者のエネルギーだけは底知れないものを感じた。この国々は向こう数年で想像できないほど成長するだろうと思った。

そして、それは現実となった。ますます多くの優秀な学生が、さらなる教育を求めてアメリカやヨーロッパに留学している。仕事上多くのベトナム人学生と関わるが、彼らは正直言って、日本の一流大学の学生も敵わないほどエネルギッシュで優秀である。それはベトナムに良質な教育があるからである。

あるいは、物価上昇ひとつ見ても顕著である。一昔前まで、タイでご飯を食べようと思えば、日本の数分の一の値段で済んだが、今や場所によっては日本とほとんど値段が変わらない。


こうした事実について、日本の教員は少しも知らない。知る由もないのだ。だからこそ、いつまでたっても日本がすごい国だという神話を捨てきれないでいる。

なぜこうした悲劇が起きたのか。それは、絶頂期だった頃の日本が教育の本質を捉えられていなかったからだ。原書にあたったり、新聞を読み比べたりするような、本質を捉えた授業を展開してこなかったからだ。大学入試ありきの教育では、そのような本質を捉える授業は不要と判断されてしまったのだ。

そんな教育を受けてきた今の教員が、日本すごい神話を信じているのは自然である。

我々が目指すべき社会。目指す教育

日本の衰退を今からどうにかしたいと思っても、もはや手遅れである。変わってしまった社会構造のもとで、再びの繁栄を目指そうなどということは、幻想である。ベトナムが日本に迫ってきている、と考えているなら、あなたは現実が見えていない。もはやベトナムは日本に追いつき、日本を追い越している。

そうであるなら、せめて我々は「成熟した大人による成熟した社会」を目指さなければならない。人に勝たなくても生きやすい社会である。どうせ経済的に衰退し、途上国に追い抜かされるのなら、そっちの方がよっぽど良い。


教員はまず日本がすごい国だと言う神話を捨てろ。日本がすごくて、ネパールが可哀想などと言う半ば国家主義的で差別的な思考は克服すべきで、もっと物事の原点に返らなければならない。

つまり、こっちがすごくて、あっちはすごくないだとか、こっちが勝ちで、あっちが負けだとか言う世界に、我々の勝ち目はないのである。そうした世界に尊厳を持とうとすることがどれほど脆いか、今一度自身に問うてみた方が良い。もしそれを疑えないとすれば、あなたには残念ながら物事の本質を捉える力はない。

我々はより持続可能な社会に生きるべきである。それは勝ちでも負けでもない、それ自体に価値のある社会。相対的ではなく、絶対的な価値のもとに生きることは可能だと言うことは、我々が自分と他者を区別出来るという点から明らかである。絶対的な価値である自分は、決して他者によって浸食されないからだ。

前回の記事でも指摘したが、生産性を求める教育というのはこれに逆行していて、生産性は明らかに相対的なものであるが故に、「低い」とか「負け」が存在する。


この意味での持続可能な社会は正にSDGsが志向するもので、教育が目指すべき社会である。そのためにも、教員は本質を捉えること。原書にあたり、新聞を読み、本を読むこと。本当に生きやすい社会とは何かという、社会の本質を捉えること。


教員よ、今一度考えろ。目指すべき社会が何で、それにはどのような教育が必要かを。

編集:関昭典、永島郁哉

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