【連載】“クソったれ”な日本の教育#6:教育は生産性至上主義の病に冒された!
「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。
前回の記事はこちら。
https://note.com/ikes822/n/ne7f5e7cf1ba2
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学生から「何をすれば良いですか?」とよく聞かれる。そこで私は「自分で考えなさい」と言う。すると、彼らは「せめて目標だけ教えてください。あとは頑張りますから」と言う。
はて、目標とは他人から与えられるものだっただろうか?
生産性と学校教育
こうした学生には「自分で考えろ」という言葉は丸投げ以外の何でもない。責任を回避する大人だと思うだけだ。
彼らには当初から自分で考えるという選択肢はない。なぜなら、どこかに「正解」があって、それは誰かに教えてもらったほうが早いからである。自分で考えた末に、それが間違っていれば、「時間の無駄」となってしまう。学生は勉強にバイトに就活に忙しいのだから、答えはさっさと知りたいのだ。
こうした生産性に特化した新自由主義的価値観を肯定してきたのは、間違いなく学校教育である。
90年代00年代の生まれである今の学生は、そうした「ルール内での生産性」を軸に評価されてきた。あらかじめ設定された枠——多くはテストで良い成績を取ること、スポーツの大会で良い成績を収めることなど——に従って、児童生徒は努力するよう求められる。教員はそうした努力を手助けするために、効率的な勉強法や練習法を伝授する。そうして、児童生徒は「与えられた目標に向かって頑張ること」を習慣化していく。何かを達成すれば、自ずと次の目標が用意され、ただそれに向かってひたむきに頑張っていればよい。機械のようなルーティンワークを繰り返すことで彼らは評価され、また、与えられたものをこなすことが良いことだという価値観が内在化していく。
これは言うなれば、極めて「企業的」である。新卒一斉採用で就職した若手社員は、業界のことなど何も知らない。彼らは新卒研修で社の方針を伝えられ、それに向かって努力するように言われるのだ。業績を残せば給料が上がり、ポジションも上がっていく。やるべきことがわかっていれば、あとはやるだけ。そこでは高い生産性を発揮したものが、勝ち組となっていく。
我々は、こうした企業的な生産性至上主義が学校教育の場にもたらされたことを危惧しなければならない。
学校教育の場で生産性やパフォーマンス性が語られることの違和感をなぜ教員は表明しないのか?
教育の本来の姿
私は、大学教員の傍ら、学生主体で国際交流プログラム等を作り上げる団体の代表理事をしている。この団体は、教育団体であって、ただプログラムを運営する非営利団体ではない。そして、プログラム内容が教育的であることだけが「教育団体」と名乗る理由でもない。作り手側の学生が試行錯誤を繰り返す、そのプロセスもまた「教育」と捉えているのだ。主体となる学生は、ゼロからプログラムを考案する。もちろん、失敗しても良い。そこにも必ず「学び」はあるからだ。
学生は、団体の漠然とした方針を基に、自らプログラム目標を考える。具体的な目標を与えた方が動きやすいことなど百も承知だが、それでもあえて漠然とした状態で学生に任せる。それこそが我々なりの教育的配慮なのである。「人生は道なき道を歩むことだ」とよく聞く。人の人生、漠然とした道筋はあれど、どんな目標を立てれば良いかそう簡単にはわからない。我々はその不安の中でも、なんとか生き抜かなければならない。そうした漠然さへの挑戦こそが人生である。
だからこそ、学生は曖昧なものに挑むための力をつけなければならない。私たちの団体はその訓練の場として用意されている。練習の場なのだからいくら失敗しても良い。漠然としたものへ挑む姿勢を育むこと、それが団体としての教育的価値である。
こうしたことを、日本の多くの学校はなかなか提供しようとせず「手取り足取り」。その結果、自分で目標を立てろと言われても、トレーニングされていない学生は、何をすればよいのかわからない。
大学に入学し、あらゆるものから自由になった途端、自分を見失うように感じる学生が沢山いる。何かを与えられなければ頑張れない学生を生み出してきたのが日本の教育である。
教員不足がもたらすさらなる悲劇
さらに、教員不足がここに加われば、まさに悲劇の始まりである。
私が大学生だった頃、学校教員は人気の職業であった。私自身も大学院在学時に競争倍率の高い公立学校教員採用試験に挑み、試験の難易度の高さに驚いたものである。しかし、今や状況は一変した。私の出身県の大学時代の同級生によれば、受験者や少ないために志望すればかなり高い確率で教員になれてしまうのだそうだ。そんな状況では、教員の質の低下は否めない。そして今、皮肉なことに、彼らは生産性を求めた教育を下支え出来なくなっているのだ。
公立学校の教員は、生産性をとにかく求める学校制度の中で、生徒の望むほどの生産性をもはや与えられなくなっている。生産性へのさらなる渇望が、教員の手を飛び出し、どうしようもなく肥大化してしまったのだ。この時に起こるのは、教育のプライベート化である。
生産性を保証できない公立学校の教員の代わりに、お金のある家庭は、子を私立学校に通わせる。とりわけ都会ではその傾向が強い。効率の良い勉強法を伝授してくれる私立学校にはお金持ちの家の子だけが通い、お金のない子は生産性の競争から振り落とされるのだ。
生産性を教育に持ち込めば格差社会が進むということを私たちはもう既に知っている。それでもなお、声をあげない教育関係者よ、あなたが守っているものは一体何なのだ。もし、教育格差を差し置いても守りたいものがあるのなら、あなたに教員としての資格はない。
結語
答えの用意された教育が、生産性を求める新自由主義といかに親和性高く結びついてきたか。
生産性の病に冒された教育がもたらしたのは、「主体性を前に路頭に迷う若者」と「教育格差」という二つの深刻な問題だ。私には、教育が本来のあるべき姿から乖離してしまっていると思わざるを得ない。
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編集:関昭典、永島郁哉
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