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【連載】“クソったれ”な日本の教育#5:教育者よ、もがき苦しめ!

「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。

前回の記事はこちら。
https://note.com/ikes822/n/n804b58c145f4

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日々、学生と関わる中で、私には大きなフラストレーションがある。なかなか言いたいことが伝わらないのだ。多くの学生は真剣にノートを取り、私の言った通りのことをする。だが、それは私の言ったことを理解していないことの証だ。彼らには主体性がない。

教育者として考えた時、私たちはそんな学生たちの態度から教育しなければならない。

外の世界へと導くこと


では、態度の教育とは何か?これは、教育(education)の語源「Ducere」に求めることが出来る。ラテン語のDucereとは、「外に引き出すこと」を意味する。つまり、その人の能力を引き出すことが教育の本来の意味だ。

その上で、教育に対する視点を、教育者と学生の立場から見ていこう。


教育者は、まず知識を与えるだろう。それは、学生を自分の方(自分の研究領域)に引っ張ってくるという行為を伴う。そうすることで、霊媒師が霊を引き出すかのように、学生の能力は教育者によって表に出てくる。さらに、その時には、表出した能力は学生によって正当に評価されるものでなければならない。学生自身が「良いな」と思える能力ということだ。

一方学生は、新しい知識を授かった時、目の前の世界への見方が変わる感覚がする。そして、それが学生にとって「良いな」と思えるものであった時、学生は過去から現在にかけて自分を振り返り、それを今までとは違った視点で捉えることが出来るようになる。


この時、注意しなければならないことは、学生が「良いな」と思うものは往々にして、学生自身がはなから求めていたものではないということだ。彼らは気づいてはいないが、確実にそれを必要としている。そんな能力を、教育者は学生の言葉や行為から汲み取り、引き出さなければならない。

とすれば、教育者は学生といかに深く向き合うかを考える必要がある。学生の内部へと侵入していき、そこに眠る宝石を見つけ出さなければならない。教科書を教えるだけの教員は、その作業を行わない失格者だ。それも吐き気がするレベルの。

知識の伝達は教育のほんの一部分でしかない。教育は学生の姿を内から捉えなければならないのだ。

学生を捉えることの困難さ


ここで少し私自身の話をしよう。


私は、25歳から教員の仕事をしている。若い頃は、技術力も、経験も、知識もない赤ちゃん教員であった。しかし、当時の最大の強みは学生との年齢の近さと、社会的地位の相対的な低さだ。今でこそ、52歳になり、大学教授という肩書を持つが、それは私にとって強みではない。学生と共通する部分を多く持つ20代の頃の方が、よほど学生と距離の近い交流をしていたと思う。


30年近く教員生活をして、私自身が徐々に、しかし大きく変わった。そしてそれが、私が学生の内に入り込むことを難しくしている原因なのではないかと思う。それが、私の言いたいことが伝わらない原因だ、と。


これは、ある意味で‶しょうがない″ことである。私自身が教員として成長し、社会に認められた証なのだから。

しかし、一方では、私の培ってきた技術が、逆に学生を「ノートを写してそれをただ実行するだけの存在」にしてしまっているのではないかという危機感もあるのだ。


だからこそ、大学教授という‶社会的地位の高い職業ならではの態度″と逆行するように、学生と同じ目線に立ち、学生を内から捉えようともがいている。教育者であり続けるために、社会的成功によって新たに築いてしまった壁を取り払い、「現場」に戻ろうと躍起になっている。

こうして、私は教育者としての私を保っているのだ。躍起になれる自分を見て、自分の教育へのモチベーションを再確認し、安心する。と同時に、世の中のどれほどの教員が、この苦しい葛藤に自ら飛び込んでいるのかを考えて、絶望する。恐らく、さほど多くはない。いや、あまり見かけない。

「入り込む」ために


では、学生の内に入り込むというのはいかにして可能なのか。


第一に、諦めないこと。最も基本的なことだが、ここで折れてしまう教員は案外多い。

次に、伝えたいメッセージをわかりやすくすること。一言で言うと何か、を明確にすること。これは技術力の問題であるため、訓練すれば身に付く。

そして最後に、言葉で伝えられない場合は行動で示すこと


以上のことは最も簡略化した指針だが、教育の基礎をなすと言って差し支えない。


すると今度は、これら三つを実施するための関係づくりが問題となる。学生といかに距離を縮めるのかということだ。若い頃であれば、年齢と地位の低さでもって、それほど苦労しなかった。しかし、学生の親ほどの年頃になり、たいそうな肩書を持つ私の様な人にとっては、それは難しい。


とすれば、ひたすらに近づきやすい人を目指すしかない。相談しやすい人柄を演出するのだ。


これは、「支援者としての教育者」と言われ、現代の教育学では大変重要な概念である。学生に寄り添う存在として教育者を捉えようとする動きだ。

ただし、この「支援者としての教育者」という概念は現場にそれほど浸透していない。学生の内に入り込む前段階の、学生との関係づくりから失敗しているとても残念なケースがあまりに多く、顔を覆ってしまいたくなるほどだ。

おわりに


いつの時代も、学生は自分を成長させたいと思っている。それは普遍的だ。しかし、一人一人の内部を見ていった時、彼らの心理状況は様々だ。そんな心の状況を見極め、その人なりのアプローチをすることが求められる。


このように言うと、大概「そんなことはわかっているが、個に応じた教育には無理がある」という人がいる。私はこれを聞いた時点で、「あ、この人は、教育者失格だな」と思う。

そんなことは当り前だ。大人数のクラスで個に合わせた教育など物理的に限界があるのは百も承知である。だが、私たちは少なくともそれをやろうとする意識を持たなければならない。それをはなから「無理だ」などと抜かすのは、全く馬鹿げている。

私が教員になりたての26、27歳の頃、とある論文でこう記述している。
「教育は教師、学習者双方の努力と協力によって成り立つものであり、決して『教師から学習者』や『学習者から教師』への一方的な関係性では成り立たない。」

教員と学生の、主体-主体の関係性。それこそがインタラクションの成立であり、教育の姿だ。


今一度声を大にして言いたい。教育者よ、もがき苦しめ!

教育者は自分が努力するにつれて、達成するものも多いが、同時に学生との距離も開いていく。そんなとき決して、学生から「あっち側の人間」だと思われてはいけない。自身の権威に安住した時、自身の声は学生には届かないだろう。

それほど教育は難しい。もしあなたが自身を教育者と名乗りたいのなら、決してこの努力を怠ってはいけない。

よりよい教育のために、学生ともっと関われ。同僚との(「教育談義」と称した)傷の舐めあいに逃げるな!

編集:関昭典、永島郁哉

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