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【連載】“クソったれ”な日本の教育#4:留学ビジネスによって喰われる学生

「【連載】“クソったれ”な日本の教育」は、教育者である私が日本の学校教育に物申すコラムシリーズです。教育者から見える日本の学校教育が、どれほど“クソったれ”かを、怒りと皮肉たっぷりでお送りします。

前回の記事はこちら。
https://note.com/ikes822/n/n5fc20f38e20e

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子を留学に送り出す親は、我が子が帰ってきたときにはどれほど立派な人になっているだろうか、と期待に胸を膨らます。立派な国際人になって、日本社会で活躍してくれるだろう、と。

これは何も、親と子の間にある淡い期待ではない。日本社会と毎年数万人という規模で旅立つ日本人留学生の関係性でもある。

前回述べた、2000年代後半の留学推進政策は、そんなナイーブな期待が具現化したものだろう。


しかし、この期待もまた、救いようもなく的外れである。空に石を投げたら、流れ星になると信じて疑わない人々が抱くこのような幻想は、己の首を絞める以上に、留学に旅立った学生の首をも絞めているのだ。

留学先で一体何が起きているのか?

淡い期待が砕かれるというのは、言い換えれば思い通りに行かないことであるが、留学はむしろ思い通り行かないことの連続である。

「異なる文化に出会う」ということは、相手と軽い挨拶を交わすような陽気さのことでは決してない。そこにはいつでも衝突や葛藤があって、自己を修正することが絶えず求められる。絶え間ない修正と適応が異文化理解である。

ところが昨今の日本人留学生でかなり多いのが、「現地の友達はなかなか出来ませんでした。」という人々だ。

ここで、我々は彼らのコミュニケーション能力の低さや語学力の低さを責めることは出来ない。むしろ我々が責めるべきは、そんな彼らの失敗を招いた無責任な留学エージェントや教育機関たちだ。

彼らは送り出しに際して、その費用や時期について多くの情報を学生に与える。しかし、彼らが決して与えないものは、「どうすれば新しい文化を自身に取り入れ、そこに適応していくか」というより日常生活世界に根差した価値観である。

「事務的な情報は与えました。後は現地で頑張ってください。」

これが基本的な彼らの態度だ。もちろん心理的サポートを謳う留学エージェントもあるが、彼らが行うのは、提携校との交渉やホストファミリーの変更手続き等で、学生の学びを優先するような世話をすることはほぼない。あるいは、世話をした気になっている。

文化適応の困難さ

海外での生活は良いことばかりではない。そしてカルチャーショックというものは、いきなり訪れるものではなく、徐々に当人に入り込み、気づいたら当人が陥っているものだ。


文化適応について、有名な本がある。アメリカの異文化コミュニケーション学者、ジョセフ・ショールズが書いた『深層文化——異文化理解の真の課題とは何か』だ。彼によれば、異文化に適応するには、途方もないほどの時間がかかると言う。その適応のプロセスには様々な障壁があって、留学するということはその障壁にぶつかりに行く行為のことである。


よく、日本人留学生が、「ホストファミリーがハズレだった」と言う。もちろん中には、本当に劣悪な環境のホストもあるが、彼らの言うハズレは本当にハズレなのではない。彼らは自らの文化規範と異なる環境に出会い、混乱しているのだ。その状況を彼らは、「自分の知っている環境とは違う」という意味で「ハズレ」と形容する。

これは文化適応過程を上手く認識出来ていないことの典型であって、事前に知識があれば対応可能だ。そしてもちろん、留学をするなら知っておくべき事柄だ。

だが、留学エージェントはそのことを学生には伝えない。もしくは伝えられない。

留学中の困難は矮小化され、魅力だけが過度に肥大化していく。その背景にあるのは、もちろん留学が市場原理を採用し、ビジネス化していることだ。

留学斡旋ビジネスの闇

文化適応は大変だと、なぜ留学エージェントは学生に伝えないのか。そんな簡単なこと、教えてあげれば良いじゃないか。そう考えるのが自然だろう。

しかし、そうしないのには次の理由がある。

①留学エージェントは学生集めに注力しているため、既に旅立った学生の世話まで見られない。
②単純に異文化コミュニケーションについての知識がないため、教えられない。
③文化適応は単純に言葉で伝える以上に複雑な過程であって、事前学習としてそれを行うには多大な労力が必要である。


①については、それがビジネスである以上、エージェントは学生が来なければ成り立たない。要するに、金にしか興味がないというのが悲しい実態である。経営において、顧客である学生に情を入れるような留学エージェントは日本全国探してもないだろう。

学生が経験する文化適応のプロセスは、彼ら自身の問題として、あるいはそれ自体が商品として扱われているのだ。


②は、特に学生向けの研修等がない、ある意味で“自由な“留学エージェントに多いのかもしれない。「知らないものは教えられない」は当たり前である。

これが問題なのは、異文化コミュニケーションの知識が無くても、留学を斡旋出来てしまう点だ。つまり、留学がいつの間にか、学生が学ぶものから、企業が儲けるものに変容してしまったことを示している。


③は文化適応の構造上の問題ではあるが、その事前学習が手間のかかる作業だからこそ、エージェントは本腰を入れて取り組まなければならないだろう。「面倒だからやらない」はあまりに無責任だ。

と、ここまで来ると、「じゃあ、もう学生を留学させてあげない方がいいじゃん!」となりそうだが、それはあながち間違っていない。

こんな留学が実態である以上、多額の金をつぎ込んで挑んだ留学が学びのないものになってしまう学生の気の毒さを想うと、行かない方がいいかもしれない、と思わざるを得ない。

日本人留学生を何年までに何万人送り出す。そんな政府の目標は、もはやおとぎ話だ。

学生が渡航先でどんな経験をするのか、どういう困難に出会い、どういう対処をすべきなのか。その議論がないがしろにされた状態で、数だけを高らかに掲げることがいかに馬鹿げているか。


そして、これは国内の多様性に対する態度とも直結している。受け入れるだけ受け入れて、あとは知らんぷり。個人の責任で、どうぞ生きてください。

そんな態度を続ける日本に果たして未来はあるのか?私には暗闇しか見えない。


人々は社会で営みを持っている。その日常性を排除した時、後に残るのはただ、虚構だけである。

編集:関昭典、永島郁哉

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