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中身のないボンタンアメ

職場のお菓子ボックス(缶にお菓子を適当に詰めて、各々食べたいときに持っていく制度)に、ボンタンアメがあった。

懐かしいなあと思いながら、次々にぱくりと口に含む昭和生まれズをよそに、職場で唯一の平成生まれSくんは、なにやら一人もぞもぞしている。

もしや。そんな緊張が走る。Sくんの手を見れば、そこにはいびつに歪んだボンタンアメが。

「これ、とれました!?」

やはり。Sくんは、ボンタンアメを包んでいる「あれ」を必死に取ろうとしていたのである。私たちは可笑しみをこらえつつ真実を告げると、Sくんは半信半疑で口に運び入れ「食べれる!」と素直に驚いていた。そのピュアな反応に私たちはこらえきれず笑ったし、Sくんも「はやく教えてくださいよ~」なんて言って笑った。そうやって、ボンタンアメを包んでいる「あれ」のおかげで、つかの間職場が笑いに包まれたのである。



***


あの瞬間、私は人知れず救われていた。ボンタンアメのあれ。あのオブラート1枚分。それだけの話で。

私は、その日、なんとなく気分が晴れなかった。原因は通勤途中、たまたま見かけたネット記事だった。お悩み相談のコーナーで、相談者は今でも友人や両親の放った心無い一言が忘れられずに、自分の思うように行動できないとかなんとか。

ああ、わかる。わかるよ。そんな風に心の中でうなずいては、私も自分の人生を振り返らずにはいられなくなる。私に向けられてきたいくつもの心無い言葉。その中で、真っ先に思い浮かんだ言葉があった。


***


「ikemoはさ、負け組だよね」


あれは確か高校時代。当時、何も言い返せなかった。だって本当にそうだった。私は、どうあがいても「負け組」だった。部活動、勉強、容姿。あらゆる面において。特に部活動。どう頑張っても、先生のお気に入りにはなれず、戦力にもなれずほぼいないのと同じだった。それでも、部活をやめなかったのは、それが私に残された唯一の意地であり、今さらやめるのめんどい~っていう怠慢でもあり、はたまた諦めでもあった。

そんな私を見て、友人が私に放った一言。それが「負け組」という言葉だった。

言葉って残酷だ。私のそれまでの葛藤や悩みや苦悩。そんなもの一切考慮されず。私は「負け組」という言葉によって「負け組」にカテゴライズされて、それで終わり。それ以上でも以下でもなく、ひとしく「負け組」。その頃ちょうど「勝ち組」「負け組」という言葉が定着し始めていたころで、多分友人もなんとなく一番怒らなさそうな私に、そういう乱暴な言葉を使ってみたくなっちゃったくらいのノリだけで言ったんでしょうけどね。

そういう言葉の数々は、普段は記憶の奥底で眠っているのに、何かのきっかけで一つ思い出せば、そこから芋づる式にあふれんばかりになって呼吸を少し浅くさせる。思い出さなくてもいい言葉を、思い出してしまう。そんな辛い通勤途中を経ての、あのボンタンアメだった。


***


ボンタンアメの後味がまだ残る舌の上、私は「ボンタンアメって言葉に似ているな」そんな風に漠然と思った。


その時は、なぜそう思ったのかわからなかったので、このノートで整理したかった。


私はまず、言葉は容れものだと、何かの本に書いてあったことを思い出した。「わたし」と言う言葉に「わたし」が入っていて、「きゅうり」という言葉に「きゅうり」という本質がある。言葉はそういう「容器」みたいなものだと。

ボンタンアメで言えば、オブラートがその「容器」みたいなものだ。ボンタンアメを包む「あれ」は、ボンタンアメ同士がくっつかないよう、一つの個体として区切るための役割をしている。言葉も一緒だ。「勝ち組」と「負け組」みたいに、この世に溢れるありとあらゆるカオスな物事・事象をカテゴライズするためにある。

そもそも「勝ち組」「負け組」なんて、もともとそういう人たちが存在していたからできた言葉ではなく、言葉が先行して生まれて、その存在は後付けだ。そういう言葉が、ちまたには結構ある。私が思うに、「自己肯定感」とか「価値観」とかもそう。誰が考えたかわからないけれど、容器はあるけど、中身はない、みたいな言葉。でもひとたび言葉になれば、その存在を渇望するようになる。「自己肯定感の高め方」とか「価値観が合う相手」とか。そういう魅力的な言葉の奥にあるちょっとした違和感。言葉とは切っても切れない関係である以上、そういうところに敏感になって、そういう言葉を面白がっていきつつ、たまに疑いの目も持って接したいと思う。


***


私は、あの時友人からかけられた言葉、「負け組」の意味、彼女がなぜああ言ったのか、その時の心情、状況…あらゆるものを紐解こうと、通勤途中、考え込んでいた。でも徒労だった。平成生まれのSくんがボンタンアメの「あれ」を食べられるとも知らず、一生懸命はがそうとしていたのと同じ。私はあれを見て笑ったけど、私だっておんなじことをしていたのだ。しかも、私のボンタンアメは、中身のないボンタンアメ。もはやボンタンアメでもない、オブラートのままのきれいに折りたたまれた立方体を、必死に分解しようとして、結局オブラートははがれないまま、しかも美味しい中身すらないとも知らず、あきらめる。で、しばらくしてまた思い出しては、はがそうと試みる。そんな意味のない苦労を繰り返していた気がした。中身がないボンタンアメに苦しめられていたのだ。

言葉ってそう思うと、薄っぺらで曖昧だ。でも逆に今日は、そんな薄っぺらな存在に救われた。薄っぺらだけど、人を救うこともあるから、言葉って侮侮りがたい。

中身があるボンタンアメも、ないボンタンアメも。からりとした面持ちと心で受け止めたいものです。そう思った備忘録。

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