見出し画像

ブロッコリーを、ただ茹でるだけ

ブロッコリーって、どうも人を不安にさせる要素がある。そう思うのは、私だけだろうか。

八百屋さんに行ったら、2つで200円だったので買ってはみたけれど、どうも不安だ。使いこなせるのだろうか?何度も食べているはずなのに、ブロッコリーを買った時はいつも不安になりながら持ち帰る。キャベツや白菜、人参。他の野菜では、そんなことないのに。


ただ、そんな不安も、ブロッコリーを茹でているときには忘れてしまう。

ブロッコリーを茹でる瞬間は、楽しい。

八百屋さんに並んでいる状態のブロッコリーは、私の知っているブロッコリーではない。緑とも言えない緑だし、なんだか素知らぬ顔してそこにいる、よくわかんない食べ物だ。そもそも、食べものというより、物体に近い。もりもりとしたブロッコリー1本×2の存在感はまるで鈍器のようにも見えて、かつて生物としてあったということが信じられないくらいの作り物感がある。そんなブロッコリーを、まずはさくさくと子房に分けたところで、やっと知った顔になる。そして、鍋にお湯を沸騰させて、塩ひとつまみ加え、ブロッコリーの子供たちをずらずらと投入させる。そうすると、さっきまでの色を忘れたみたいに、きれいな緑色に落ち着く。そうだ。そうだよ。これが私の知っているブロッコリー。さっきまで他人面していた彼らが、急に慣れ親しんだ友人になった。そんな感じが愛おしくって、菜箸で一つ一つ、まんべんなく火が通るようにちょんちょんとつつく。浮かんだり、沈んだりするブロッコリーたち。かわいい。

茹で上がったら、鍋を傾けて、ざるに入れる。もふもふと湯気が立ち上って、青い臭いに包まれる。生まれ変わったような顔つきの彼らを見ていたら、ブロッコリーはゆでるだけで料理になるんだよなあ、と思う。偉い。

それに、ブロッコリーをゆでる瞬間。それはアートだ。ブロッコリーという不可思議な存在そのものを解体し、茹でてその緑色を楽しみ、新しいブロッコリーとな出会い、そして、それを有難く受け入れる私たち。まさしくアート。そうやって何でもアートって言ったもん勝ちである。

色々言って並べてみたけど、結局のところ、美味しいし、栄養価高いし、冷凍しておけるし、便利なので好きですという話です。ブロッコリー。

一度はサポートされてみたい人生