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【連載小説】朝陽のむこうには ~サバトラ猫のノア~ 6〈全8話〉

僕はおかあさんの運転する車の中で車窓から外を眺めていた。
次々と街路樹が流れていく。
車が角を曲がってから、それは家々が見える景色に変わった。
住宅街に入ってきたみたい。

弟は僕をひざに乗せて後部座席に座っている。ほとんど身動きをしないで、タオルの上から僕の背中をそっとなでている。
僕が眠っていると思って起こさないようにしてくれているんだ。

しばらくして、車は速度を落として停車した。

「おかあさん、先に家に入っていい?」
弟が小さな声で訊いた。
「いいわよ。大輝は猫さんを連れて浴室で待っていてくれる? おかあさんは駐車して、冷蔵庫に食材を入れてから行くから」
「うん」
弟はおかあさんから渡された鍵をズボンのポケットにしまった。それから、タオルに包まれた僕をしっかりと腕で抱え、後部座席のドアを開けて外に出た。
僕は弟の腕の中で少しだけ顔を上げる。
真新しい白い家。今はここに住んでいるんだね。

弟は門扉を開けて、木製の玄関ドアに向かってゆっくり踏みしめるように歩いていく。僕を壊れやすい宝物のように大切に扱おうとしているみたい。
「ここが僕の家だよ」
弟は僕の耳元に小さな声で話しかけ、ポケットから取り出した鍵で玄関のドアを開けた。

家の中は、何だか懐かしい匂いがする。

弟は僕を抱いたまま器用に足だけで靴を脱いだ。そして、廊下から洗面室に入り、その奥の浴室に僕を下ろした。
見上げた先に窓が見える。壁が白いタイル貼りの明るい浴室だ。
弟はバスチェアに座り、軽く僕を押さえておかあさんが来るのを待っている。

おかあさんが洗面室に入ってきた。
「猫さん、きれいきれいしましょうね」
おかあさんは大きめのタオルにお湯を含ませてからよく絞り、その温かいタオルで僕の全身を包み込みながら優しく拭き始めた。
顔、耳、頭、前足、体、後足、しっぽ、それから肉球。
僕は目を閉じてじっとしていた。
タオル越しにおかあさんを感じる。

「さあ、もうお部屋に連れて行ってもいいわよ」
そのおかあさんの言葉を聞いたとたん、弟はちょっと歓声をあげて僕を抱きかかえて廊下に出た。そして廊下を進みガラスのドアを開ける。
「ここがリビングで、あっちがダイニング。ごはんを食べるのはあっちだよ」
弟は指し示しながら説明し、僕の顔をのぞき込む。
「おなかすいてるよね?」
それから僕をそっと床に下ろした。
床のフローリングを嗅いでみると、木そのままの香りがした。
「おかあさん、猫ちゃんが食べられるものある?」
そう言いながら弟はドアから出て行ってしまった。

僕は部屋の中を匂いを確かめながら歩きだす。
床はちょっと滑る。でも、気をつけて歩けば問題はないかな。
僕は一旦立ち止まり、部屋の中を見渡した。
ソファとセンターテーブル、それから低めの収納家具がある。その収納の上にあるのはテレビと植栽だけ。
部屋全体はナチュラルな木と白色で統一されているけど、テレビの後ろの壁だけはレモンのような明るい黄色になっている。
黄色は僕が好きだった色だ。

部屋の中のあらゆる場所にいろんな種類の植物が置かれている。床の上、出窓やカウンターの上、天井から吊るされた植物もある。
リビングとダイニングに面した大きな窓からは、薄いカーテン越しに庭の木々も見える。
すごい、家の中だけでなく外も緑でいっぱいだ。

あれ? 植栽以外はほとんどなにも置かれてない。
部屋は緑がいっぱいで清潔できちんとしていて、居心地がとても良さそう。でも、なんでだろう。

なにかが足りない気がする。

「この子はどこかで飼われていて、きっと迷子になったのね。届けを出して、飼い主さんが迎えに来るまで飼ってあげようね」
キッチンにいるおかあさんが僕の後を追って歩く弟に話しかけた。
「ずっと飼ってはいけないの?」
弟はダイニングテーブルの下にいる僕を見ながら訊いた。
「飼い主さんはとっても心配しているっておかあさんは思う」
「でも、飼い主さんが現れなければずっと一緒だよね」
弟はそう言ってから僕の方に手をのばした。

おかあさんは水栓の水を止めてから弟に優しく語りかける。
「大輝、そうだね。でも飼い主さんが見つかったほうが猫さんにとって幸せなら、おかあさんは喜んで送り出したいな」
おかあさんの言葉に弟はちょっと不満そう。
「大輝、それでいいかな」
「――分かった」
弟は僕を抱き上げてダイニングチェアに座り、ぎゅっと僕を抱きしめた。
そんな弟を見て、おかあさんはにっこりと微笑んだ。
「さて、猫さんに必要なものを揃えないとね」
それからおかあさんは紙になにかを書き始めた。
「大輝、とりあえず今日必要なものを角のコンビニで買ってきてくれる?」
弟は「うん」と応えて僕を床に下ろし、おかあさんからメモを受け取った。
「猫ちゃん、行ってくるよ」
そう僕に告げ弟は出かけていった。

「ええっと、確かダンボールがあったはず」
おかあさんは独り言をいいながらドアから廊下に出ていってしまった。

僕はリビングからダイニングをぐるりと回り終え、キッチンのほうに歩いていく。
すると、リビングの横にもうひとつ部屋があることに気づいた。
その部屋の奥は壁一面が大きな書棚だった。天井いっぱいの大きさだ。書棚には本やファイルなどがびっしりと並んでいる。

その書棚の手前には大きな長方形のテーブルがあった。
キャスター付きのアームチェアと、それに向かい合う位置にベンチが置かれている。ベンチは三人が座れるくらい長い。
ここは書斎のようだけど、ひとりが使うんじゃなくてみんなで使う部屋なんだ。

僕はベンチを足掛かりにテーブルに上ってみる。
アームチェアの前にはノートパソコンが置いてあって、その横にはなにかの資料が山積みになってる。
そしてベンチ側にあるのは、弟の勉強道具。本やノートが開いたまま。きっと買い物についていく直前まで弟はここで勉強していたんだ。

弟はどんな勉強をしているんだろう。ノートをのぞき込んでみる。
なにが書かれているのか全く分からない。
しかたないか。僕は今、猫だしね。

その部屋とキッチンとの間には壁がない。だからキッチンがよく見える。ということは、キッチンからもよく見えるってこと。
僕の記憶では、勉強机は子供部屋にあって僕はそこで勉強をしていた。
この書斎ならキッチンにいるおかあさんのそばで勉強ができるんだね。

「あら、猫さん、ここに来てたのね?」
おかあさんがダンボールを持って書斎に入ってきた。
おかあさんはテーブルの上にダンボール乗せ、それをカットしたりテープで留めたりしてなにかを作り始めた。僕はテーブルの上でそんなおかあさんを眺めていた。
おかあさん、なにを作っているんだろう。

「ただいまー」
弟だ。はあはあと荒い息をしている。走って帰ってきたみたい。
「おかえり。ちょうどよかった。今できあがったよ」
そう言っておかあさんはダンボールで作った物を床に置いた。
「ちょっといびつになっちゃったけど、大丈夫、使えるから」
それから、その中に弟が買ってきた猫用のトイレシートを敷き、その上に猫用のトイレ砂を敷き詰めた。
そっか、僕のトイレを作ってくれていたのか。
おかあさんはテーブルの上にいた僕を抱えてそのトイレのそばに下ろした。
「とりあえず、今日はこれで我慢してね」

弟は僕の隣に座り、買い物袋からキャットフードを取り出し始める。
「どれが食べたい?」
そう言ってひとつひとつ僕に見せながら説明していく。いろんな味のものを買ってきてくれみたい。
最近はすっかり腹ペコに慣れちゃって忘れてたけど、今すごくおなかがすいていることに気がついた。
ごはんを用意してもらう。それって、本当にありがたいことなんだね。

弟はじっくり選んでいたけどひとつの缶詰をおかあさんに見せた。
「これがいいかな。おかあさん、これあげていい?」
おかあさんに「いいわよ」と言われ、弟はその缶詰を開けてボウルに入れてくれた。
「おいしい?」
弟が顔を近づける。
おいしい。本当においしいよ。

ぺろりだった。
こんになおなかがいっぱいになったのって久しぶり。
僕は食後の毛繕いをしながら余韻を味わっていた。
おなかいっぱいで眠くなってきた。すごく眠い。
うーん、ソファの下に行こう。

玄関のドアが開く音で僕は眠りから覚めた。
「ただいま」
玄関から聞こえる声。おとうさんの声だ。
「おかえりなさい」
キッチンにいたおかあさんが廊下に出ていく音がする。そして、僕の話をしながら戻ってきた。
「それでね、しばらく猫さんをうちで預かろうと思うんだけどいいかな」
「二度もおかあさんの車のところに来たなんて、なにか縁があるのかもね」
おとうさんがリビングに入ってきた。
「いいんじゃないかな」
ソファに座り、さっきまで何度も頭を逆さにしてソファ下の僕をのぞいていた弟が立ち上がった。
「僕もお世話をするよ」
お父さんのそばにぴょんぴょんと飛び跳ねていく弟の足が見えた。
おとうさんの笑い声が聞こえる。
「よし、よし、わかった。で、その猫はどこにいるんだ?」
僕が顔を上げたちょうどその時、のぞき込むおとうさんと目が合った。
おとうさんだ!
「まだ新しい環境に慣れないんでしょう。ごはんも食べたし、今日はそっとしておきましょう」
そうおかあさんは言った。

僕はどきどきしている。
僕は今、おとうさんとおかあさんと弟と一緒の部屋にいる。

僕は目を閉じて三人の夕食の会話を聞いていた。三人は会話も多くて時々笑い声も聞こえる。

よかった。

僕はここに来る前、僕がいないのに幸せそうだったら悲しくなってしまうかも、そう思っていた。
でも違った。
僕がいなくなった後も彼らが幸せな気持ちでいてくれているほうがずっといい。楽しい気持ちで毎日を過ごしてほしい。
三人が楽しそうにしている声を聞きながら、僕は穏やかな気持ちで眠りについた。

翌朝の早い時間から弟がちょっかいを出してきた。
僕は知らんぷりをしてみる。弟は僕に興味を持ってもらおうと必死だ。
「大輝、早く朝食を食べないと遅刻するぞ」
「はーい」
おとうさんに言われて返事はするものの、僕のことが気になる様子。
一生懸命な弟の様子がおもしろい。

「おとうさん、この子の名前はどうするの?」
「そうだな、どうしようか。大輝、考えてみる?」
「うん、あのね」
弟は重要な発表をするような顔をしている。
「昨日の夜から考えていたんだ」
「おお、そうか」
おとうさんが笑いながら答える。おかあさんも笑顔だ。
「タイガっていうのはどうかなあ」
弟はもうその名前で朝から僕を呼んでいる。
「おっ、強そうでいい名前だね。でもどうしてタイガ?」
おとうさんに訊かれて弟は少しもじもじした。
「えっとね、しましま模様で、虎みたいだなって」
弟はそう答えた。

でも僕には違う理由を言っていた。
「僕の弟分だから大輝の大をつけてあげるよ。大きな河で大河。かっこいいだろ? 君の名前はタイガでどう?」
僕はその日から弟の弟分になった。

「いい名前を思いついたわね。じゃあタイガで決定ね」
おかあさんも賛成のようだ。
「おかあさんは、今日保健所に行って迷い猫の届け出をしてくるから」
「――うん、わかった」
弟はそう答えながらぼくには小さな声で、「このまま、ここに居たっていいんだよ」とささやいた。

弟とおとうさんが出かけた後、おかあさんは僕の写真を数枚撮った。
それからチェアに座りパソコンを操作する。しばらくして、チェアの後ろのカウンターに置かれたプリンターから紙がプリントアウトされた。
「じゃあ、タイガ、ちょっと出かけてくるからお留守番していてね」
書斎の床で毛繕いをしていた僕の頭を軽くぽんぽんと触って、おかあさんは出かけていった。

ダイニングテーブルとキッチンの間の床には僕のごはんと水が用意されていた。僕は少しだけ水を飲んだ。
それから、ダイニングの奥の出窓に向かう。
出窓の上の観葉植物に注意しながらひょいと飛び乗った。

出窓からは外の道路が見える。時々人が通り過ぎていく。
それから部屋の中を見渡した。
丸いダイニングテーブルの上にはなにも置かれていない。
きちんと整理されたキッチンカウンターの上には観葉植物がある。うん、あれは食べられる葉っぱだ。
出窓の上で窓の外を眺めたりうたた寝をしたり。そうしてひとりの時間を過ごした。

ふと目が覚めて耳を澄ましてみたけど部屋の中は静まり返っている。おかあさんはまだ帰ってきていないみたい。
二階に行ってみようかな。
テレビの置かれた収納の横に階段があることに気づいていた。そこから二階に上がったけど、二階のドアは全部閉まっていた。
しかたないのでまた一階に下りていく。

リビングを通り抜け書斎に行き、アームチェアの座面に飛び乗った。

おかあさんの匂いがする。
座面は広くて柔らかくて何だか落ち着く。
そう思っていると、また眠くなってきた。

玄関ドアの鍵が開く音がした。おかあさんが帰ってきたみたい。
僕はチェアの上で目を閉じたまま、おかあさんの様子を耳で感じていた。
おかあさんは僕を探している。そして、チェアの上の僕を見つけた。
「タイガ、ごはん食べなかったの?」
あっ、忘れてた。やっぱり長旅で疲れていたのかな。眠くてしかたない。
僕はちらっとおかあさんの顔を見てまた目を閉じた。

おかあさんがそばにいる。
この温かい気持ちのまま、まだうとうとしていたい。

一度立ち去ったおかあさんがまた書斎に戻ってきた。そして、僕が乗っているチェアをするすると横に移動させていく。それからチェアのあった場所に持ってきたダイニングチェアを置きそこに腰かけた。
おかあさんはパソコンを開き操作を始める。
かちゃかちゃというキーボードの音を聞きながら僕はまた眠ってしまった。

「ただいまー」
元気な声で弟が帰ってきた。
僕はその頃にはすっかり起きていてごはんも食べ終え、ソファの下で毛繕いをしていた。
新しく買い揃えてくれたトイレも、僕は完ぺきに使いこなしている。

ちょっと弟の相手をしてあげようかな。
のっそりとソファの下から出て待ち構えていた弟と遊んだ。
「おかあさん、今日は僕のベッドで一緒に寝てもいい?」
「いいわよ。でも寝相よくしないとね」
弟は嬉しそう。

その夜、弟は僕を抱えて階段を上り、二階のひとつのドアを開けた。
「ここが僕の部屋だよ」
本やおもちゃが収納されたオープン棚、そしてランプの置かれた小さなテーブル、その奥に二段ベッドが見えた。
このベッドは僕の記憶の中にある。僕も使っていたベッドだ。ベッドの上段には布団はなく、サッカーボールがひとつだけ。
二段ベッドの下段には布団や枕、クッションなどがある。弟はここで寝ているんだね。
そういえば、僕がいた時も小さな弟はベッドの下段だった。

弟は僕を抱えたままベッドに入った。
「タイガ、おかあさんをいっぱい!いっぱい!楽しませようね!」

弟はどうしてそんなことを言うんだろう。


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