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正岡子規『はて知らずの記』#04 七月二十一日 白河→須賀川→郡山

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

今日も汽車でビューン。俳人を訪ねる。


二十一日朝、町はづれをありく。
森を見かけて、のぼれば、
果して、天満宮あり
境、静かにして、
杉、古りたり。

夏木立 宮ありさうな ところかな

白河を発す。
途上口占

麦刈るや 裸の上に こもひとつ

山里の 桑に昼顔 あはれなり

やせ馬の 尻ならべたる あつさかな

須賀川に、道山壮山氏を訪ふ。
此地の名望家なり。
須賀川は、旧白河領にして
古来、此地より出でたる俳人は
可伸、等窮、雨考、たよめ等なり。

郡山に宿る。
旧天領にして、二千余戸の村市なり。
三四の露店、氷を売れば、
老幼男女、更る更る来りて、
梭を織るが如し。


天満宮(→天神神社)

白河(→白河駅)

須賀川(→須賀川駅)

郡山(→郡山駅)

思ふに夜間散歩して氷を噛むは此地の名誉にして田舎の開化なるべし。(初出)

其の翌日は須賀川に下車して、又宗匠を尋ねた。須賀川は芭蕉当時でさへ、等躬といふ俳人がゐて、軒の栗で有名になつた土地であつた。が、若輩に見えた子規は更らに齢ひせられなかつた。当時東京で有名な宗匠といへば、金羅、幹雄、永機などであつたが、幹雄門にでも入つてもつと勉強するといい、などと頭から教訓を垂れるのみであつた。(河東碧梧桐『子規の回想』)

次で七月二十三日郡山消印の左の書状が来た。(…)小生此度の旅行は地方俳諧師の門を尋ねて旅路のうさをはらす覚悟にて、東京宗匠之紹介を受け、已に今日迄に二人おとづれ候へども、実以て恐れ入つたる次第にて、何とも申様なく、前途茫々最早宗匠訪問をやめんかとも存候程に御座候、俳諧の話しても到底聞き分ける事もできぬ故、ある人は是非みき雄門にはいれと申候故少少不平に存候処他の奴は頭から取りあはぬ様子も相見え申候、また此後どんなやつにあふかもしれずと恐怖之至に候、此熱いのに御行儀に座りて、頭ばかり下げてゐなければならぬといふも面白からぬ事に候、せめてはこれらの人々に、内藤翁の熱心の百分一をわけてやり度候、半紳士半行脚之覚悟故気楽なれども、面白き事は第一、名句は一句とてもできぬに困り候、小生は今日に於て左の一語を明言致し申候、名句は菅笠を被り草鞋を著けて世に生るるものなり/先は大略悪旅店之腹立ちまぎれにしるす(河東碧梧桐『子規の回想』)


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