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正岡子規『はて知らずの記』#13 七月三十日 松島→岩切→仙台

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

名所を見て、再び仙台へリターン。


三十日、朝、
雄島に遊ぶ。
橋を渡りて、
細径、ぐるりとまはれば、
石碑、ひしひしと並んで
木立の如し。
名高き座禅堂はこれにや、と思ふに、
傍に怪しき家は、何やらん。

すずしさを 裸にしたり 座禅堂

かねて命じ置きたる小舟は
旅宿の前に纜を維いで、我を待つ。
直ちに乗りうつれば、
一棹二棹、
はや五大堂をうしろにして、
福浦島、眼の前に迫る。
此島には竹藪ありて、
穴の無き竹を出だす、となり。
岸づたひに楯が崎をめぐれば、
手樽村のこなたに着きぬ。

賤しき童に案内せられていく事半里、
険阪を攀づる事、五六町にして、
富山の紫雲閣に達す。
寺は山に寄りて構え、
庭、二三間を隔てて其向ふ、
見下す限り、即ち松島なり。
実にや、松島は富見にあり、とかや、
西は、瑞岩寺につづく山々より、
東は、こかね花さく金華山まで、
大は、宮戸、桂の島々より、
小は、名も知らぬ大岩小岩まで、
いかで我眸中を逃るべき。
うねうねと長きは、蛇島にして、
平かにつくばひたるは、亀島なり。
月星島あれば、蓬莱島あり。
大黒島あれば、毘沙門島あり。
其外、何島彼島、
杖のさき、扇のはしにかたまつて、
十八里の海面、
八百八の島々は、
眼もくらむ許りになん。

涼しさの ここからも眼に あまりけり

松島に 扇かざして ながめけり

海は扇 松島は其 絵なりけり

去る年、奥羽御巡幸の折ふし、
鑾輿、かしこくも
この寺に駐め給ひし
玉座のあと、竹もて囲ひたるに、
何とはなく尊とくて、
飄亭餞別の句も
ここにぞ思ひ出だされける。

山を下れば、
再び舟に打ち乗りて、塩釜に向ふ。
船頭は、帆を順風に任せて、
己れは舵をあやつりながら、
一々に島の名を指し教ふ。
忘るれば復聞き、聞けば復忘る。
岩ありて、松あり、
同じ島、と見れば、異なり。
うしろに見えて、形、目に新らし他し島
と見れば、却て、又同じ。
一つのもの、幾様にも見て、
七十の島、八百にやなるらん。

涼しさや 島かたふきて 松一つ

海草、水面に広がりて
月、宿るべきひまだになきは、
あたら、松島の疵にやあらん。
さて、此草を、此あたりにて
藻と呼ぶにや、と問へば、
船頭、いふやう、
此草は、冬になれば
全く枯れて跡なく、
春の頃より、少しづつ生ひそむるになん。
昔は、製塩の法も、
今の如くは開けざりしかば、
此草を多く刈りあつめて、之を焚き、
其灰より、塩を取りし故に、
今も、藻汐草、とはいふなり、と語る。
名所の言葉、昔のなつかしくて

涼しさや 海人が言葉も 藻汐草

十符の菅菰の事など尋ぬるに、
朧気に聞き知りて、はなしなどす。
耳新しき事、多かり。

舟、塩釜に着けば、
ここより徒歩にて、名所を探りあるく。
路の辺に、少し高く
松、二三本、老いて、
下に、石碑あり。
昔の名所図会の絵めきたるは、
野田の玉川なり。
伝ふらく、
こは、真の玉川に非ずして、
政宗の政略上より、
故らにこしらへし名所なり、とぞ。
いとをかしき模造品にはありける。
末の松山も同じ擬名所にて、
横路なれば、入らず。
市川村に、多賀城址の壺碑を見る。
小き堂宇を建てて風雨を防ぎたれば、
格子窓より覗くに、
文字、定かならねど、
流布の石摺によりて、
大方は、兼てより知りたり。

のぞく目に 一千年の 風すずし

蒙古の碑は、得見ずして、
岩切停車場に汽車を待つ。

蓮の花 さくやさびしき 停車場

此夜は、仙台の旅宿に、寝ぬ。


雄島

誠に駄句の埋葬場なるべし。(初出)

福浦島

手樽村(→宮城県宮城郡松島町手樽か)

富山の紫雲閣(→富山観音)

塩釜

野田の玉川

末の松山(子規は訪れず)

多賀城址の壺碑

ある説によればこも亦正しき坪の碑にはあらざるよしなれど去りとては此古びやう摸造なりとも数百年のものなるべし。(初出)

蒙古の碑(子規は訪れず)

岩切停車場(→岩切駅)

仙台(→仙台駅)

針久旅館に宿す。(全集第22巻)


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