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正岡子規『はて知らずの記』#01 旅立

(正岡子規の『はて知らずの記』を紹介しています)

病気だけれど、松島に行きたい……


松島の風、象潟の雨、
いつしか、とは思ひながら、
病める身の行脚、道中覚束なく、
うたた寝の夢は、あらぬ山河の面影、
うつつにのみ現はれて、
今日としも、
思ひ立つ日のなくて過ぎにしを、
今年明治廿六年、夏のはじめ、
何の心にかありけん

松島の 心に近き 袷かな

と、自ら口すさみたるこそ、
我ながら、あやしうも思ひしか、
つひにこの遊歴とは、なりけらし。

先づ松島、とは志しながら、
行くては何処にか向はん。
ままよ、浮世のうき旅に
行く手の定まりたるもの、幾人かある。
山あれば足あり、金あれば車あり。
脚力尽くる時、山、更に好し、
財布軽き時、却て羽が生えて
仙人になるまじきものにもあらず。
自ら知らぬ行く末を楽みに
はて知らずの日記をつくる気楽さを
誰に語らん、とつぶやけば、
魍魎、傍に在りて、うなづく。
乃ち、以て、序と為す。
あなかしこ。

三春、病ひに鎖して、
筆硯、やうやうにうとみ勝なるに、
六月のはじめつかたより、
又わらはやみに罹りて、
人情の冷熱、一生の盛衰は、
独り心に入みながら、
時鳥の黒焼も、其効あらず、
野道の女郎花、われ落ちにき、
と、人に語ふ間も無く、
木末の朽葉、ふるひかへし、ふるひ落して、
兎角する程に、一月も過ぎぬ。
ある日、鉄眼禅師の、わが病床をおとづれて、
今より北海行脚にと志すなり、と語らるるに、
羨ましさは限りなけれども、
羽抜鳥の、雲井を慕う心地して

涼しさや われは禅師を 夢に見ん

と、餞別の一句をまゐらす。

やがて病の大方におこたりしかば、
枕上の蓑笠を睨みて、空しく心を苦しめんよりは、
奥山羽水を踏み越えて、胸中の鬱気を散ぜんには如かじ、
と我も思ひ、人も勧むるままに、
旅衣の破れをつくろひ、
蕉翁の奥の細道を写しなど、あらましととのへて、
今日やたたん、明日や行かん、
と思ふものから、
ゆくり無く医師にいさめられて、
七月も、はや十九日といふに、
やうやう、東都の仮住居を立ち出でぬ。


先づ松島とは志しながら行くては何処にか向はん。金華山の豪壮高館の悲惨末の松山遠くとも矢立峠に筆を濡し八郎潟に西湖の遠きを忍びて名にしあふ秋田に蕗の哀はれを知らんかはた山形米沢をうしろにして越の国に夏の白雪を誰やらの膚にながめ猶行く先は直江津より信州に入りて仏の御光を拝まんか山路にあへぎて掬びあへぬ清水越に渇せる喉をうるほさんか。(初出)

明治二十六年六月の半ば頃、子規は瘧を病んで、しばらく病床の人となつた。瘧がやつと落ちた時分に気管支炎でも起しさうに咽を患つた。自分の肉体の欠陥、一度血を吐いた不治の病痾、それは忘れようとしても忘れることの出来ない刻みつけられた印象に悩んでゐた子規は、「かういふ時にどこかへ静養に」といふ旅行癖を一層力強く主張し、ぢつとしてをれない者のやうに強調した。(…)よく、治り次第何処かへ行かう、今度は少し遠方へ行かう、松島辺まで行つて見たい、あれから芭蕉のあとを追つて奥州へ出るのもいい。仙台にはAがゐる、あいつを驚かして鳴子温泉あたりの山の温泉にゆつくり浸らう、さぞ時鳥や鶯がやかましい位鳴くことだらう……、こんな空想を描いて、一人で旅行気分を唆つた事も幾度だつたであらうか。(河東碧梧桐『子規の回想』)


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