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『はて知らずの記』の旅 #2 福島県・飯坂温泉(上)

(正岡子規の『はて知らずの記』をよすがに、東北地方を巡っています。)

バスのような電車

 飯坂温泉は絶妙の距離にある。
 東北新幹線が停車するJR福島駅から、福島交通飯坂線という可愛らしいローカル線が出ている。それに乗って二〇分もすれば、山の麓の温泉場に到着する。
 街中から近すぎず、遠すぎず。
 手軽に旅行気分が味わえる。

 乗り場は、駅ビルのはずれにある。従業員通用口か、と思われるような暗い通路を入った奥にあるので、見つけられない人がでるのでは、と心配になる。
 今時は珍しい有人の改札を進むと、
「お間違いのないようご乗車願います」
 と、注意書きがしてある。
 プラットフォームの右手に福島交通飯坂線が、左手に阿武隈急行線が入る。
 一つの島を別会社で共有しているのは、珍しいのではないか。
 しばらくすると、島の両側に、まったく趣味の異なるカラーリングの車両が、仲良く並んで入線して来た。
 あんまり息がぴったりなので、駅の手前まで前後に並んで来たのか、と錯覚した。

 二両編成の、三人ずつに仕切られたシートに腰を下ろした。乗務員室の窓に、「ゆ 飯坂温泉」と書かれた青いのれんが垂れている。反対を向くと、連結部には赤いのれんが懸けられていた。車内は温泉一色だった。
 動き出すと、向かいの窓越しに、山がよく見えた。
 右に吾妻連峰、左に安達太良の青い峰々が、空との境界をくっきりと画していた。
 蛸の吸盤のように見える吾妻小富士の周りだけが、鼠色をしていた。
 そのずっと右下に、太陽光発電でも行うのか、緑が削られ、あかい肌が露出したような禿があり、痛々しかった。
 再生可能エネルギーも考えものだ、と思った。

 線路は単線だった。車両は、住宅と住宅の間を進んだ。
 速度はまったく上がらない。その上、駅に頻繁に停まるので、感覚としてはバスに乗っているようだった。
 ワンマン運行かと思ったが、車掌がしっかりついていて、車内を忙しげに動き回っていた。顔なじみを見つけたのだろうか、客と女どうしの世間話をしながら、切符を準備していた。

子規のかわりに……

 医王寺前駅が近づくと、住宅はまばらになった。左右から、獲物を追い込むように緑の山が近づいて来た。
 芭蕉が訪れた医王寺に、子規は行っていない。

二十七日曇天、朝風、猶冷かなり。をとつひより心地、例ならねば、終に、医王寺にも行かず。

『はて知らずの記』

 体調が優れなかったのである。
 ならば、子規のかわりに自分が行ってやろう、と思った。

 線路を跨いで、小さな駅を出た。
 長閑な景色だった。
 仙台は、東京になりきれない大宮、の感じがするが、福島は、そもそもソコを目指していない、という感じがする。
 太い車道に出ると、くだもの狩りや旅館の看板が現れた。
 駅名とは裏腹に、けっこう歩いた。
 医王寺前駅は、医王寺の「前」にはなかった。
 ようやく、「松尾芭蕉ゆかりの地 医王寺」と書かれた標識の下に来た。
 路地を入ると、低い塀の間を、道が緩い曲線を描いて伸びていた。
 陽気のためだろうか、沖縄県の糸満あたりを歩いているような錯覚に陥った。

医王寺の看板

 医王寺は、参道が長かった。
 高い杉に挟まれたこの直線が、ここの特徴だと思った。
 幹を囲うのに、何人で手を繋げば足りるだろう、と思われるほどの巨木もあった。
《佐藤基治公・継信・忠信兄弟の菩提寺》
 受付で渡されたパンフレットにあるように、医王寺は、この地方を治めていた佐藤一族ゆかりの地として名高いのだった。信夫の荘司と呼ばれた佐藤基治(もとはる)の息子、継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟は、源義経の家来となって戦死した。そのことが、「およそ人に仕える人、かくあるべし」という美談となって、後世に伝えられているようだった。
 詳しくは『平家物語』『義経記』『吾妻鏡』を参照するとよいらしい。
 芭蕉がここを訪れたのも、彼らを慕ってのことだった。

医王寺の参道
忠信・義経・継信像

 途中から上りそうに見えた木陰の参道は、平坦なまま終わった。
 行き着いた先は、高い樹に囲われた神社の広場のようになっていた。
 その中央に、素朴な薬師堂が置かれていた。
 薬師如来が祀られているとのことだが、覗き穴に眼を当てても、黒くて何も見えなかった。内側から、ひんやりとした冷気が流れて来た。
 堂の斜め後ろに、継信・忠信兄弟の墓があった。
 英国のストーンヘンジの巨石を連想した。
 倒壊防止のためか、並んだ二つの墓石は、別の石枠に嵌めこまれている。
 墓石の表面には文字が書かれているのか、いないのか……。
 左の忠信の石は、三つに割れていた。
 墓というより、古代の神聖な石を見るようだった。

継信・忠信墓碑と薬師堂

 その先の、堂の真裏にあたる位置には、兄弟の父である基治と妻・乙和の墓が並んであった。こちらの石は、二回りほど小さかった。
 その左隣に、乙和の椿と呼ばれる樹があった。
 息子兄弟を失った母の悲しみが乗り移り、この樹は、花が開かず蕾のまま落ちてしまうのだと云う。
 本当かな、と思った。
 足元を見ると、花弁は一つも見当たらないかわりに、紅色が混じった白いドングリのような蕾はたくさん落ちていた。
 広場を出た先には、果樹園が広がっていた。
 ここからも、吾妻連峰の青い山体がよく見えた。
 子規はここに来たかっただろうな、と思った。

義経・弁慶が使った?

医王寺といふ寺に義経弁慶の太刀、笈などを蔵すといふ。

同上

 寺の宝物は、瑠璃光殿という新しい建物に展示されていた。
 入口に「撮影禁止」と大書きされていたため、眼に焼き付けるよう心がけた。
 継信が使用していたとされる鞍が、ガラスの中にあった。木製の、尻が痛くなりそうな鞍は、表面がつやつやしていた。千年近く前の物が、こんなに綺麗に残るものかな、と思った。
 屋島の戦いで、継信が射られて死んだという鏃(やじり)があった。遺品として義経がここまで届けに来たのだと云う。
 義経の直垂(ひたたれ)の端切れがあった。黄緑色がかった汚らしい布だった。
 義経の家来だった弁慶の笈(おい)があった。笈とは、木で造られたランドセルのようなものを想像するとよい。これが弁慶のものだったかという事よりも、鍍金の細かい装飾の方に眼が行った。もしこれがほとんど剥げ落ちてしまっていなければ、どれだけ金ピカだったことだろう。
 弁慶が写経した巻物があった。青い紙に金色の文字が書き込まれていた。もし本物だとすれば、弁慶は綺麗な字を書く人であった、と証言しよう。
 それにしても、寺の宝物として昭和の白黒の絵葉書には写っている義経の陣太刀というのは、どこに行ったのだろう。展示品の中に見つからなかった。

 寺の入口の脇に、「おくのほそ道・芭蕉坂」と書いた標識が刺さっていた。
 芭蕉がこの道を通った、ということだろうか。
 落ち葉を踏みながら、急坂を下った。
 すぐに果樹園の景色になった。川沿いに立つ樹の白い花のせいだろうか、チューインガムを噛むときのような甘い匂いが漂って来た。

 佐藤基治が城主をしていた大鳥城址に行ってみた。
 城を築く際、守護神として中央に生きた鶴を埋めたため、そう呼んだらしい。
 蛇がとぐろを巻くような坂道を登った。
 天守が置かれていた高台に出た。
 城の痕跡は、きれいサッパリ無くなっていた。
 太陽光が照らす緑の芝生に、黄色の花がたくさん咲いていた。
 けれど、さすがに眺めはよかった。
 細い川を挟んだ緑の中に、先ほどまで居た医王寺本堂の屋根を見つけた。その先には、ガラス屑を撒いたように、福島市の市街が広がっていた。

(次回に続く)


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