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普通の超人/京極夏彦『オジいサン』

 京極夏彦の連作短編小説、『オジいサン』を読んだ。主人公の益子徳一は72歳の男性である。彼は未婚のまま老後を迎えた。働いていた会社はとうに定年退職している。読んだ限り、親族を含めてとくに親しい人間は存在しない。これといった趣味もない。何人か登場する近所の知人も、薄い繋がりでしかない。物語は、そんな老いた男性の日常に浮かぶ思念を延々と綴る。

 作中に登場するエピソードと言えば、公園のベンチ、ほぼ使っていないテレビ、スーパーでの試食、気乗りしない料理、団地の回覧板。どれもフレーズを見ただけでアクビが出そうな代物だ。徳一自身、ヤカンのお湯が沸騰するまでを見ていられるほど暇だと自認している。まさに絵に描いたような余生だ。空虚と呼ぶこともできる老人の日常生活を、心温まるエピソードで飾り立てるわけでもない。読み手によっては、これほど退屈する小説もないだろう。実際に、そういった読者の感想も目にした。

 心温まるエピソードもあくまで控え目なこの作品を、私は好意的に読んだ。孤独な老人に奇跡が起こるような、過剰に温かい人間ドラマなら願い下げだと思っていた自分には、うってつけの内容だった。こんな受けの悪そうな小説を良くぞ書いてくれたものだとさえ思う。なぜ関心を持って読めたのかといえば、現実的に徳一という老人に自分の将来が重なるからだ。彼の生活は私にとっては他人事ではない。老後の内的な体験のシミュレーションである。

 72歳の益子徳一は独り長く平凡な人生を歩み、いまは仕事すらなく、誰とも深い付き合いはない。しかし、その内面に卑屈さや鬱屈した感情の陰は見当たらない。作中では、外から見た徳一が一部の人々にとってモウロクした老人であることを窺わせるが、内側から見た彼の姿はモウロクにはほど遠い。それどころか、ときおり見せる時間や老化に対する考察は鋭く、非凡で明晰な思考が光る。

 本作は主人公の徳一をどこにでもいる普通の老人として提示している。しかし改めて考えれば、これほどまで見事に社会と切り離された人間が、そのことを自覚しながら真っ当な精神を維持して長い日々を過ごせることは驚異的である。そんな徳一の存在に説得力を感じられるのは、彼の記憶から垣間見る過去の会社員時代や、他人に対する想いに裏付けがあるからだ。
 働いていた頃からどうやら団体行動をあまり好みとせず、かといって強く反発するでもない。同世代に子や孫ができても人並みの幸福を一切、羨むでもない。ここからどうやら、徳一が老人になる以前から一貫して、他者を志向する欲望とは縁遠い特性を保持していたらしいことがわかる。現実にこのような人間が存在するかを想像すると、ありえるかどうか際どいところではないだろうか。そのギリギリいるかもしれないラインを突いた稀有な人物像を、いかにも何の変哲もない男かのように主人公に据えたのが、私の見た、『オジいサン』だった。作品に魅力を感じたのは、普通の皮を被りながらも実は特異で、絶妙な徳一の人物造形があればこそだった。

 いずれ似た境遇に身を置くであろう自分の目には、徳一という「普通の老人」が「超人」として映った。広大な砂漠を、何食わぬ顔でひとり渡りきる超人である。

※トップ画像はpixabayより。作成者はisakarakus様です。
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