書くことも書かないことも救いなのかもしれない。
久しぶりにnoteを開き、書いている。
一番最後に更新したのは、去年の7月なので、かれこれ半年ぶりである。
何故、あれほど書くことが好きだった、または書くことで救われていた私が書くことをやめてしまったのか?
思い当たる理由が一つある。
それは、今の対人援助職に就いたからだと考えている。
体力的にきついとか、精神的にきついとか、そういうのではなく...。
いや、気の強い年下の同期や上司との関係性など、人間関係ですごく悩んでいる。人生で一番悩んでいる気がする(笑)
でも、以前の私なら、それを発散するために書いていたはずである。
となると、やっぱり思い当たるのは、自称HSPな私が、患者さんの感情や気持ち、言動に常にアンテナを張りつつ、周りの状況にも気を配りながら、仕事をするために、感受性を高めている分、それ以外では、感受性を抑えようとしているからという理由である。
イメージ的には、水道の蛇口を緩めたり、閉じたりするように感受性を高めたり、抑えたりしているつもりではあるのだが、実際にはあまり、自分でコントロールできていないような気もしている。
だから、時々、患者さんに向けている感受性のベクトルが何らかの理由で自分に向いてしまって、いつもよりも深く考えたり、悩んでしまうのだろう。
水が出ているホースを持っている手が滑ってホースが暴走し、ホースの先が自分に向かい、水を止められずに、びしょびしょになるといった感じだろうか。
もちろん、普段はなるべく自分自身には、感受性のベクトルを向けないように気を付けているつもりだし、しっかりと持っているつもりでもある。
患者さんと自分との境界線は意識しているのに、他のスタッフとの間の境界線があいまいになってしまっていて、不意打ちをくらうことも少なくない。
きっと、書かないことで私は、仕事以外で深く考えることや感じることを抑え自分を守っていたのだろう…。
でも、何かを見たり、聞いたり、行動したりすれば、心は感じるわけで…。
悩みだって、考えないようにしても、考えてしまうし、考えても答えが出ないと分かっていても考えてしまう。
だとしたら、やっぱり私は書くことで救われる人間なのだろう。
実際に、書かないことで、余計な力を使わずに済んできた。
でも、一方で、それと引き換えに私は自分の本当の気持ちや感情を表現することを放棄していたのだと思う。。そうすることで、それらのバランスをとっていたのだろう。
でも、私はやっぱり、ため込んでしまうし、考えたことや感じたことは、素直に表現していきたいと思っている。
そして、表現するところは、やっぱりnote。
なぜなら、フォロワーさんは、noteでの繋がりしかない方だから。
というわけで、noteを書くあいだには、水道の蛇口をゆるめて、また少しずつ書いていきたいと考えている。
そして、それが私にとってのnoteの書き方というか、私とnoteとの付き合い方なのである。
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