君がつぎに持つ線香花火になりたい。【短編小説、詩】

 夏に、線香花火の玉を落とした弟が「あっ」と漏らしたその声を聞いても、どうしてもどうしても頭に血が登って降りないことなんてアイツの事しかなくて、それから秋冬春を越して、また次の夏がきてもどうしても頭から離れず、すわった目で虎視眈々と敵の姿を探していた。蚊取り線香の匂いが夏の風物詩としてよいものとされていることが気に食わなくて、どう考えても臭いだろ、と思った。 



 私は去年の夏、君の血を自然にもしゅるると吸い上げやがった蚊がゆるせなかった。どうしても。蚊は殆どが秋冬を越せず一度きりの夏で死んでしまうのだろうか。君の血液とまた他の人の血液も吸って、おなかをいっぱいにして、寒さがいちばん厳しい冬の日を知らずしてこてっと死んでいった、蚊として特段に苦労せず、いちばんナチュラルな死に方をしていったのかと想像すると、もう居ても立っても居れず腹が立ち、足に合わないヒールのまま地団駄を踏みたくなる。知らずして君と私と世界をバカにし切っている。その行為に悪意はあったのか無かったのか、"悪意はなかった"という言葉をよく耳にするが、悪意なくやるほうが悪意あってやるほうよりもマシとされるのはどうしてだろう。むしろ、感覚的に"これはやってはいけない"と感じ取れないその善悪に対する感覚の鈍さのほうが、生物として根源的に悪とされるのではないか、とか、前にみたアベマの倫理問題的な特集ニュースについてその時なんとなく考えていたことまでイラつく頭ではっきりと思い出したりしていた。

 それから一年が経とうとも、君の革命の血を己の血液としやがったあの蚊が憎い。弱肉強食の頂点に立つ人間としてその権威を大振るいするのはズルい気もするが、蚊のくせに本当に本当に飛んだ贅沢な愚行だと思った。君に止まった蚊は、君のどこまでも均一な雲一つない肌に映える一点の汚れだったのだろう。 柔らかく弾力をもって幾重に重なる君の細胞に、己の細い細い針をぎゅううと刺し込んでゆくその感覚、力加減といったら、どんなものであったのだろうか。そして赤い赤い革命の鮮血を1ミリしゅるると吸い込んだ、その感触、風味、味わいというのはどこまでの至高だったのだろうか。己の身体で君の血を吸い込んだ時のそのクオリアのすべてをなにかしらの動画か文字にでも記録することなく、SNSに残すことさえしないまま、冬の本当の寒さを知る前におだやかに息を引きとっていったことを思うと、本当に一体全体、生まれ変わった来世で一生をかけて罪を償おうとも許されるべき事態ではない。君の脈打つ血液をその流れのままに吸い取ることなど私には不可能で、いつの日かストローか哺乳瓶などに入れて吸うことができたとしても、私の身体にとって人間の血液が延命のための唯一の栄養源ではない時点で君の血を吸った蚊に勝ることなどできないのだ。私は血を吸わずともたくさんの肉や野菜から鉄分を得る選択肢があるのに対して、蚊にとって人間の血液は唯一の水であり、最後のエネルギーなのだから。唯一食事として、それ相応の至福の旨さもきっと感じられるのだろう。 陽射しの暑さに血がグツグツと身体を昇っていくのを感じる。やはりわたしは、あの蚊を許せそうにない。

 今日は真夏日だ。夏になると、産まれてからずっと夏という季節だけを生きてきたかのように、頭が気温の高さとクーラーの風に犯され、それ以外の季節は消え失せてしまう。 

 弟が、さいごの線香花火にカチッと火を付けた。この小さく懐かしい灯火というのは、究極に残酷な風物詩だ。「死」を娯楽にするとは。線香花火は刹那の赤い光を魅せながらちいさく舞い踊る。その間だけ、家族はすこしの緊張感を保ち、一言も喋らない。みなで刹那の舞の終焉を、赤い光が堕ちる瞬間を待ち望む。小さくて美しい人が死ぬ、その瞬間だけを待ち侘びる。フィクションの「死」は、いつだって美化される。そこには異様に人々を惹きつける美しい「死」が在る。この世の病床の何処にも存在しない「死」。だから君は、あまり線香花火みたいにはならないで欲しい。とてもとてもうつくしく生きているのだから、あまり美しくなり過ぎないで。あまり深くまでは考えず、考え過ぎず、生まれもったそのおおきなエネルギーに身を委ねたまま、おおきく生き抜いて。

 わたしは君が次にその手に持つ、線香花火になりたい。


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