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マリヤ・ルーズ号事件

明治5年6月。ペルーの汽船、マリヤ・ルーズ号が横浜へ寄港していた時、捕らえられていた奴隷の一人が逃げ出し、近くの英国軍艦に助けをもとめました。

英国は日本政府に対し、この奴隷船問題の解決を求めます。

その要請を受けた日本政府は国際裁判を行いました(これが、日本で行われた初めての国際法にのっとった国際裁判となります)

裁判により奴隷売買は国際法違反と判決。

奴隷は返還されることになります。

しかし、この裁判中ペルーから文句がでます。

「人道上から外国奴隷を解放するという日本は、女郎という奴隷を売買し、その自由を拘束するのを認めている。そんな日本の裁判には承服しがたい」

こう言われたのです。

痛いとこをつかれた日本政府は、それなら日本も彼女達を解放しようと、芸娼妓解放令を出しました。

金で買われてきた芸妓、娼妓を解放せよと全国の妓楼に命令したのです。

しかし、彼女達は店に借金がある身です。

その全ての借金を政府が補填することはできません。そこで政府はこう言いました。

「彼女らは人としての権利を失い、牛馬にひとしいので借金を返せとはいわない。芸者屋や女郎屋は牛馬から金の返済をもとめてはいけない」

芸妓、娼妓は既に人間ではない。牛や馬に金を返せとは言えないだろう。

だから、店側は彼女達に借金を返せと言ってはいけない。

このような理由で、借金を帳消しにしたのです。

政府としては借金を帳消しにするための苦肉の方便、温情だったのかもしれません。

ですが、その名目として彼女達を牛馬扱いとしたのです。この為、芸娼妓解放令は「牛馬切り解き」とも言われました。

こうして、遊郭の女性達は解放されましたが、家に戻ったところで彼女達は生活できるわけではありません。

もともと口減らしの為に売られた人も多かったのです。

さらに、売春自体が禁止されたわけではありませんでした。

彼女達のその後に関して、政府は何の政策も保障もなかったのです。

結局、彼女達のほとんどは元の妓楼に戻っていきました。

しかし、政府が解放した手前もあり。そのまま受け入れるわけにもいきません。

そこで、遊郭は貸座敷と名称を変えます。

政府も人間を金銭賃借の抵当としてはならないが、肉体労働で借金を返すのは構わないとしました。

つまり、名称が変わっただけで何も変わらなかったのです。

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