金印について、その1〜あれって本物なの?という議論〜
福岡市博物館に所蔵されている国宝の代表といえば金印だが、この金印については発見された江戸時代から偽物説がつきまとっている。
2018年には福岡市博物館が主催で金印真贋論争というシンポジウムが開かれた(博物館主催なのが凄い)
この金印について、何度かにわけて書いていきたいと思う。
古代史の面白いのは、真実が誰にもわからないことだ。
数年おきに盛り上がる邪馬台国論争などもその例で、専門家から郷土史家まで、調査して文献を調べて考察して、議論するのが楽しいのだと思う。
国宝金印とは教科書では必ず習う「かんのわのなのこくおう」と読むアレである。
中国王朝は銅印、銀印、金印とランクをわけて諸侯に送っていた。
金印は一番上で、皇帝の親族や有力諸侯に送られた。この印は皇帝の後ろ盾がある証であり、権力の象徴でもあった。
日本と歴代の中国王朝との間では様々な時代に金印が送られている。
発見されれば邪馬台国論争に決着がつくとも言われている、魏の武帝(曹丕)から卑弥呼に送った「親魏倭王印」。
足利義満や豊臣秀吉に送られた「日本国王之印」などが有名だ。
「漢委奴国王」印が発見されたのは江戸時代中期。
天明4年(1784年)の2月23日(旧暦)場所は志賀島。
志賀島は現在では海の中道と呼ばれる陸地で繋がっているが、昔はその名の通り島だったそうだ。
発見の経緯などは福岡市博物館のホームページにも書かれているのだが、あえて書いていきたい。
発見したのは甚兵衛という百姓というのが最初の定説だったが、近年では秀治と喜平という二人だと判明している。おそらく、二人は甚兵衛の小作農だったのではないかと。
発見の経緯としては、畑を耕しているときに大きな石を見つけて、その石を除けると、金色に輝く印があったという。
この表現も、時代が経つごとに話が盛られていっている。大きな石の下から、石柱が周囲にあっただの、部屋があって石棺の中に納められていたとか。
さて、石の下から金印を見つけた秀治、喜平の二人は甚兵衛に金印を渡した。
甚兵衛はこれを兄の吉兵衛が奉公していた米屋、才蔵に相談する。
才蔵は那珂郡奉行の津田源次郎に報告。
津田源次郎は交流のあった儒学者、亀井南冥に鑑定を依頼。
亀井南冥はこの金印こそ後漢時代に光武帝から送られた印だと見抜いた。
(この根拠となったのは、魏志倭人伝、後漢書東夷伝、そして現在太宰府天満宮に保存されている唐の時代に書かれた「翰苑」という書の中の「魏略」だったとされている)
亀井南冥は「金印弁」という金印の価値を示す論文を書いて黒田藩に提出。
その価値を認めた黒田藩が甚兵衛より白銀5枚で買い取り、以後は藩の宝として保管した。
これが、現在言われている金印発見の経緯だ。
そして、鑑定者である亀井南冥こそが、この金印を偽造したのではないかという説を、千葉大学名誉教授の三浦祐之さんが著書の中で書かれている。
次回は、金印が発見された志賀島について書いていきます。
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