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金印について、その7~金印以外の遺物~

志賀島からは金印以外の遺跡、遺物ともに何も発見されませんでした。

しかし、金印発見と同じ天明年間には福岡県の西側、糸島周辺で貴重な遺跡が見つかっています。

江戸時代の国学者、青柳種信がのこした柳園古器略考という本があります。

そこには天明1年から10年の間で発見されたという遺物の写しが描かれています。

その発見の経緯はこうです。

次市という農民が田の水路を掘っていたところ、赤茶の水が出てきたので調べてみると、大きな石に囲まれた中で銅鏡を見つけた。

この時発見された鏡は「方格規矩四神鏡」といって漢の光武帝の時代に制作されたものだということがわかっています。

この出土地ですが、1994年には場所が特定され発掘作業が行われました。その地域には平原遺跡井原鑓溝遺跡三雲小路遺跡と遺跡が隣接してあり、そこから発掘された様々な出土品(青銅鏡、鉄刀など)は現在、伊都国歴史博物館に展示されています。

糸島は怡土、伊都などと書かれ、魏志倭人伝にも書かれていた伊都国があったとされており、海外の要人を最初におもてなしする場所であったと言われています。

この遺跡は怡土城の近くにあります。戦国時代まで怡土を治めていたのは原田家です。

その原田家ですが、面白い伝説が残されています。

原田氏の菩提寺である金龍寺には「大蔵朝臣原田家累歴案内」があり、そこには原田氏の先祖は大蔵氏であり、漢の高祖、劉邦を始祖としていると書かれています。

「漢の劉邦と高祖城主(梓書院、昭和48年)」
この本にはこう書かれています。

はるか昔、この地に住んでいた人達が海に流れ着いた人を助けた。その服装から高貴な人であろうと思われたので、彼を王にした。

(糸島には全国でも珍しい「神在(かみあり)」という地名があるのですが、これも何か関係があるのかもしれません。古代、神とは王のことであったとすると、神が居た場所を神在と名づけたのかもしれません)

さて、異国の地で王となった彼は、先祖を偲んで近くの山に高祖山という名をつけたと言われています。怡土城跡の近くに高祖という地名があります。

高祖とは漢王朝をつくった劉邦のことです。

漢王朝は紀元前206~220年の約400年間、中国を支配した王朝です。王族である劉家の人間が日本に亡命するとなれば、どの時期だったのでしょうか?

もっとも可能性があるとしたら漢王朝の劉家が一度帝位を簒奪された時期ではないでしょうか。
漢帝国は紀元前206から8年を前漢、25年から220年を後漢といいます。漢王朝の後が三国志の時代です。

前漢、後漢の間にという王朝があります。劉家の帝位を簒奪したのは王莽という男で、新王朝を建てましたが、わずか17年で劉秀によって滅ぼされました。そして漢帝国を再興した劉秀は光武帝と呼ばれることになります。

この光武帝が「漢委奴国王」と書かれた金印を送った皇帝です。

先に藤原貞幹、上田秋成は金印を「かんのいとのこくおう」と読んだと書きました。

次回はいよいよ、本当は金印はここにあったのでは、ということについて書いていきます。


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