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「平野国臣を襲ったコレラの大流行」


安政5年から数年の間、日本ではコレラが大流行しました。筑前の志士、平野国臣も罹患して生死を彷徨うことになります。

安政5年11月に西郷隆盛の命を救った後、平野国臣は西郷の紹介で下関の豪商、白石正一郎のもとに身を寄せます。

下関は西日本の交通の要所でした。白石正一郎は長州藩の仕事を任されていた一方で、薩摩の御用商人も務めていました。

彼は後に高杉晋作の奇兵隊に弟と共に参加するなど、尊皇派志士を援助し続けた人物です。

平野国臣はここで番頭をするなどして過ごします。その中で彼は薩摩、長州、備中の三国貿易を計画していました。(この計画が実現していれば、薩長同盟はもっと早かったかもしれません)

ところが、その計画の途中コレラに罹患します。

安政5年(1858)から中国経由でもたらされたコレラ菌はこの年、日本全国で大流行しました。

江戸だけで10万人、全国で約25万人が亡くなったとも言われています(この数字には、討幕派が流した流言飛語だという説もあり)

少しタイムリーな話題になるので補足をします。

2020年3月26日のデーターでは日本のコロナウイルスでの人口10万人あたりの死亡率は0.035%(死者数÷人口×10万)もっとも高いイタリアで死者7503名で12,41%です。

コレラでの死者が本当に25万人だったとしたら当時の日本の人口は3000万人程度ですので、人口10万人当たりの死亡率を同じ計算式にいれると833%になります。

コレラはコロリと死ぬから古呂利と呼ばれたり、虎狼狸という妖怪の仕業などという流言もありました。

現在のような医療技術はなく、そもそも感染症という概念すら曖昧であった時代です。

しかも時は幕末。安政の大獄で粛清が吹き荒れ、政治情勢は不安定でした。

ですが、そんなこんなも乗り越え、日本は明治維新を成し遂げたのです。

平野国臣もコレラに罹患しましたが一命を取り留め、再び国事に奔走することになります。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言います。

人はその歴史の中で何度も感染症と戦い、勝利してきたということです。

コロナでパニックになってる場合ではないですね。

※感染症は正しく怖がりましょう



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