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宮崎滔天捕まる~辛亥革命への道⑮

フィリピン独立運動には失敗したものの、500万発の弾薬を得、三合会の次に哥老会との連合も果たした孫文は、いよいよ革命の烽火を上げることにした。

明治33年の春、香港から二手にわかれると孫文はシンガポールへ、宮崎滔天らは軍用金を調達した後に合流、さらにシャムで在留支那人から軍資金を募集した上で支那内地へと侵入しようと計画を起てた。

その頃、日本を追われた康有為がシンガポールに滞留していたので、康有為らの一派も仲間に加えようと協議した。

孫文もそれに同意したので面識のあう宮崎滔天が康有為のもとを訪ねることになった。

シンガポールに到着した宮崎は康有為に手紙を書くと面会を求めた。

ところが、三日たっても返事がこない。

痺れを切らして康のもとを訪ねたが、面会を拒否されてしまう。

実は宮崎滔天がシンガポールにきたのは康を暗殺するためだという噂が流れていたのだった。

康有為も恩人である宮崎に会わなければ礼を失う、しかし会えば命の危険があると配下に言われ悩んでいた。

そこで、宮崎滔天に手紙と共に百テールという金子を部下に私、届けさせた。

その手紙には

「面会したいのだが、政府の監視が厳重で面会が許されない」

という内容が認めてあった。

宮崎滔天もこれには怒って。

「左様な金はいらない。ここまで来たのは面会して協議したいことがあったからで。亡命の御身だから運動費に困ってるかもしれないと、僕のほうで金を差し上げたいと多少の用意もしてきたのだ」

そういうと、康に対して一筆認めた。

その翌日。宮崎が宿屋の二階で筑前琵琶を弾いていると、靴の音が聞こえてきた。

日本旅館の二階なのに、靴の音が聞こえるとは何事だと思っていると、英国の警官が乗り込んできた。警官達はピストルを向け「静かにしろ!」と言った。

宮崎滔天には康有為暗殺の嫌疑がかけられていた。


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