公園の木々の枝から帰れない

私たちの普段住んでいる世界は、すぐに完結してしまう。油性のマジックがすぐに揮発してしまうかのような簡単さで、真新しいものや違和感には素早く慣れて、私の内側に組み込まれる。室内と車内と室内を行き来する。

外の世界を少し想像する。街、市、国、この列島、そして大陸を覆い尽くしているのは何か、要素の中で多数派は何か。それは草木だと思う。そしてその枝と根、土と小石だと思う。

一旦視野を自分の近くまで戻してみる。街を見てみると、ところどころに草木が見える。公園、公園、川沿い。道沿い、その枝ぶりは乱雑さに任せているように見えて実は日光に対する効率を求める法則に沿って伸ばされている。彼らの歴史がギザギザの肌理となって幹の表面に記される。とても表現できない。木のうろの叫び。

そんな自然の無限さの表出がこの人間世界の端々に生えている。我々の行政が機能しているから、かろうじてその自律性は食い止めてられているし、私がもし室内の行き来の途中で一本の木のうろを本気で見てしまったなら、そのほれぼれするような自律したグロテスクさに人生を狂わされてしまうかもしれない。

子供の頃の私は公園で遊ぶ。あるがままにされている土の上から形の良い石を見出す。同じように枝を、葉を見る。その基準はよくわからない。土に枝を等間隔で突き刺し、その間を補完してテリトリーを作る。その場で見つけた石を宝物に見立て積み上げる。近くにあった花を添える。綺麗なガラスを添える。落ちていた電池やプルタブを添える。小さな祭壇のようなものができる。表を返せば何もないと同じような自然の無限の資源から、そういったオブジェクトを見出して、ミニチュアを構成した。

その視線で地面を見てみる。街から地面へのフォーカス。小石を見てみる。黒く鈍く輝く小石。最初は砂だったものがとてつもない時間と圧力でこの形になった。自分の目を最大限拡大すると小さな孔が無数に広がる。ところどころに模様が走る。冬の外気にさらされ冷たくなっていたこの石は、私が触れたことによって人肌まで温められたことによって別の相になったりしてはいないだろうか?現在も変化の過程にいるのだろうか?小石のそのゆっくりとした時間感覚は私の一生では知覚できない。

小さな小枝を見てみる。黒い2次元のいびつな線にしか見えないが。その端々は鋭く。強く持つと痛い。無数の筋が走っていて、それぞれの角度で光を跳ね返す。ところどころ紫であったりシルバーであったりする。分岐する予定だった芽がふつふつと浮き上がっている。時間が待ってくれたら、もう少し太陽に近づいていただろう。堅いところは色濃く変色している。裂け目から発せられる各々の性格。

土。あるがままに見えている故にすべて隠されているような塊たち。小石と枝と、その前段階にある土と芽たちがマーブルのように広がる。すべての色が混ざった結果、黒色になった地面をすべての色が混ざった結果白色になった光が照らしている。目を近づけてみる。何事も何かを成す前のものだから、すべてのものが未知で、統合されていない、言葉になっていない言葉のようだ。歩くと足の裏から聞こえてくるじゃりじゃりという音がこの面の情報を知覚できる唯一の情報だと思う。

私たちの生活の外に広がる木々、小石、土。一つ一つに模様があり、時間があり、性格があると言う事実をのめり込むように見つめてみる。私たちの内側が揮発し、木々の世界へ没入する。ということは一瞬ではあるが可能だ。もう帰れないと思う瞬間も一瞬ではあるが存在する。気をつけて。



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