善→人間→意識不明

世間も寝静まった午前2時にこのテキストを書いている。窓の外は暗闇だ。しかし太陽の影響下からは常に逃れられない。朝を迎える3時間半後までこの時空は太陽の反射光である月の光に照らされる。38万キロ先の砂漠の光に私の目はかすかに反応する。

中学生の頃から私はずっとほぼ毎日この時間は起きている。宵っ張りにとって寝るということは、近い将来である明日のためにしょうがなくする仕方のないことであり、弱い強制力に折り合いをつける瞬間に私は布団に入るのである。

思えば、深夜を得るということは明日への圧力を身をもって対抗することである。目を開けながら(寝ない)目をつぶる(明日のことに)と言うアンビバレンスさと、意識不明の街の中で自分だけ意識があると言う無法さに夜な夜なギンギンになっていた。そしてギリギリまで夜を弄んだ結果、私の朝は最悪であり、だから機嫌が悪かった。そんな中高の生活を送っていた。自分が思うに、反抗期とは睡眠不足から来ているのではないだろうか?

久しぶりに朝に起きてみると、やはり健やかな気分になる。善人になったような気分だ。善なる朝の光にみなぎる労働への活力。朝は善の力を使って働くことを思い浮かべる。

うってかわって夜は悪...と言うと語弊はあるかもしれないが、意識不明になるために前段階の時間だろう。現在の重力がだんだん弱くなっていく。善なることや、悪すらも月の光に溶けてゆき、夢の中で記憶とともに裁断されてゆく。

昼もまた独特の時間だ、朝の善は太陽から降り注いでいた。太陽は真上に昇りますます地上に振りまくが、民はそれに飽きてきていて、その興奮から理性さを取り戻していく、もっとも人間が人間になる時間帯が昼だと思う。

夕方は人間にも飽きていて、何になろうか右往左往している頃だ。それは太陽と月が入れ替わる、曖昧なグラデーションを体現しているかのように。


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