疲れてきている

印刷物におけるテキストは、物理的に後から上書きのできないようなメディアとしての強度が非常に高いものである。それが一つのテキストであれば、白消しで文字をなくしたり、文章の上にシールを貼ったりして内容を変えられることができるが、その変更した形跡は残ってしまうため、文章に対して真と偽のの存在が浮かび上がり、情報の信憑性が失われてしまう。100部や1000部の印刷だと、その作業すら困難である。二度と変えられないテキストを扱う印刷物は精査に精査を重ねることで、ネット上のテキストとは物理的にもメディア的でも違ったオーラを放っている。

twitterや、instagram、また掲示板の老舗である5ch(2ch)は一度記事を投稿すると、それを書き換えることはできない。印刷物よりも波及力の強いこれらのメディアは、その情報源の確度を少しでも担保するためにあとからの情報の上書きを許さないと言う考えが見て取れる。

発表されたニュース記事が後から内容が全く変わってしまうほど書き換えられてしまい、ニュースの配信者としてあるまじき行為としばしば炎上しているのを見る。それがPV目的でやっているのか、記事上の失敗をごまかすための苦肉の策なのかはわからない。

この書き換える/書き換えられないことの長所と短所を考えてみる。書き換えられることの長所は、常に情報が最新のものになり、時間とともにテキストのクオリティが上がっていく。書き換えられないテキストのクオリティは出力された時点で止まるが、情報源としての改変されることなく、その信憑性を保つことができる。言うなれば病原菌のような様々な思惟から防疫ができるように。

ハイパーテキストは、爆発的に増加する情報を記録し、それぞれをリンクで関連付け、検索しやすくするようにした知識のフォーマットで、その始祖のmemexは図書館と電気的に接続した机を想定し、今に続くwwwは素粒子物理学の論文と情報を研究者に効率よく行き渡らせるために開発されたものだった。ハイパーテキストははじめは研究者のものだった。

ハイパーテキストと言う言葉を考案したテッドネルソンはHTMLの欠陥として、原典を辿れない引用、一方通行で切れやすいリンク、権利やバージョン管理の不在を上げた。そしてXanaduと言う構想を立ち上げ足がけ54年でそのデモンストレーションとも言える「OpenXanadu」を2014年に発表した。本書と引用元が視覚的にリンクしているのがわかるテキストブラウザのような形になっている。これもテキストの信憑性を重視する研究者に向けたフォーマットだと思う。

私たちはSNSを通して情報の信憑性に日々踊らされている気がするが、そもそも信憑性とはなんだろう?やはり知りたい情報はそのまま受け取ることができるのが望ましく、もしそれがふんわりしていたり、嘘が混じっていたりしているととても困る。少し先の未来を予想できないし、次の行動がとても危険なものになってくる。

もし今インターネットがなくなって、情報源が新聞や噂話になったら、耳に入ってくる情報に対して疑いを持って読み取ることになる。情報の確度を上げたければ、有力な情報源の近くに入って行くことが重要になってくる。つまり大衆のような大きな集団に流れてくる情報よりは、小さなコミュニティの中で情報を交換した方が次の一手の確実さは上がってくる。

ハイパーテキストも元は研究者というコミュニティ内で使われることを想定したものだから、引用元がその中でははっきりしていたり、情報が書き換えられても誰がどういう意図で書き換えたのかが判断できた。

ハイパーテキストはコミュニティ内で運営した方が本来の力を発揮できる。地球規模で展開することで、偶然のマッチングによる化学反応やそれによる発展には大いに興味があるが、そのような奇跡は割と少なく、副作用であるテキストの劣化の方が実際多い。自分はそこに疲れてきている。

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