コンピュータが使えるという前提・AIが使えるという前提
一昨日「こだま」に乗っていました。大阪日帰り。東京ではなく途中駅発着なので。片道3時間くらい。
この日はPCを持ち込んでいませんでした。T2とOM-1は持っていた。それとiPodの、何世代目かな、最終世代。その後iPod売ってない。サブスク契約してストリーミングで聞いてくださいということなのでしょう。でも今でもiTunesで「ダウンロード」で曲が買えて、iTunes(Windows)やApple Music(Mac)からiPodに転送できるので、私はそれで音楽を聴いています。
普段が普段なので、よほど体調の悪い日でもなければモニタとキーボードに触れない日はない。でも「こだま」に乗ると、3時間、モニタない、キーボードない。最初はスマホ見てましたけど、なんでまた「こだま」に乗ってまでスクリーン見なきゃならないんだろう?と思って、めがねを外しました。
視力0.08未満、乱視あり。老眼も少しあり。めがねを外すとファインダー覗いてもピントが合わせ……られるAFだから。露出もAE。30年前からそうですけど。
「そのそも8まで絞ればピント合うやろ」実はそうです。4/3なので5.6でも。感度auto。画像285km/h走行中。パンフォーカスでなくAFなのですが、レバーを適当に動かしてフォーカシングエリアを動かしてこの辺にピントでいいかなー、本当にOM-1におまかせ。「お前それでも写真家か!」写真家でなくてもいいです。何かの団体に属している訳ではないので誰に迷惑かけることもないですし。でも「なぜこれを撮ったのか」と問われると「撮りたかったから」。「めがね外してぼやけた風景しか見とらんのに何を言う」まあそうですけど。でも「撮りたい、が、そこにある」。
昨日今日始まったことではないのですが、私を含めて、今生きている日本人のほとんどは「コンピュータが使える前提」で暮らしているのではないでしょうか。
昔、国鉄の運賃は「全国ほぼ同じ」でした。それが、いつしか「幹線」「地方交通線」に分けられ、「通算するときには特別な計算」、まあ、そのあたりまでは手作業でも出来ました。けれど、JR九州が他社と異なるルール「擬制キロ」を導入した時、思いました。もはやJRの運賃制度は、コンピュータに計算させる前提で設計しているのではないだろうか、と。
全然関係ないけど、浜名大橋。
iPodで音楽を聴いていたのですが、1983年演奏の曲と、1990年代演奏の曲と、2008年頃演奏の曲と、2023年演奏の曲を聞いていました。
1983年は、YMOの散開ライブ。2023年の曲の次に聞いても、何も違和感がない。40年目にして改めてその凄さを感じたのですが、YMOの曲って、今、Youtubeで「弾いている人」が居ます。でも、初期の細野晴臣さんが「コンピュータでないと出来ない演奏も可能になるのではなか」ということを、何かに記していました。翻って今、演奏できるか否かというより「コンピュータの存在を前提に曲を作る」ことが、当たり前になっているのでは?と。
今でもボーカルは「歌っている」のですが、その点についても、1980年代初頭、富士カセットの抽選で当たる「カセット」で、坂本龍一さんが「人間の声は特別」ということを言っていた。
彼らは、おおむね「40年先」を言い当てていた感じがします。
またも関係ないですが、名古屋。
今、「AIに代替されない仕事は何か」みたいな話をネットの記事で読みますけど、一体何を言っているのか。仕事をしている当事者は別として、その仕事(サービス)を利用している立場にしてみれば「AIで代替できない仕事をどうしてくれるのか」の方が問題なのではないでしょうか。
私の仕事、Webの維持管理とかご相談とか、それこそいずれAIに代替されると思います。月末前になって電話掛けて「来月のご予定は?お盆休みとか決まりました?」「えーっと、あ、お盆休み決まりました」「ではそれ更新しときますので」。問題は「単価」。技術的に可能であっても、飯島意匠価格でそれが出来るかどうか。それを思うと10年では厳しいのかもしれない。20年後はどうかな。
私って、仕事だけでなく「全てが」隙間産業みたいな奴だなと思うことがあります。写真もそう。
京都に着きました。「どこが?」いやでも本当に京都の四条通で撮ってます。
AIが私の仕事を代替してしまったら、私はどうしようかな。
老齢年金もあてにならないし。
写真家として大成して……それはない。
新幹線に抜かれてます。阪急京都線「どこ行くん?」
これ、どこだっけ。十三の前だったかな?
写真を見ても「どこだかわからない」って凄いな。
マツキヨもBIG ECHOもコメダも2nd STREETもCAN★Doも、関東にもありますやん?電話番号が06なので辛うじて「大阪かな?」。
個人的に「AIによって仕事が-」って、あまり気にしてないです。
「自分の仕事はAIで代替できない(偉いだろ)」って言っているのではないです。10年か20年か、あるいはもっと早くにか、代替できてないといけない仕事の一つだろうなと思います。
「自分の写真はAIには撮れない」とも思わない。所詮、近視乱視老眼でめがね掛けずにシャッター切る奴です。機械学習とコンピュータなしで撮れない奴、手を挙げなさいはい私そうです。
淀川です。
大阪、阪急三番街。さすが食の町ですね。
GINZA?
大阪っぽいの撮ってみました。それだけ。
一瞬「300円」と思ったけれど、中華そばとセットで1200円なんですね。でも美味しそう。
買ってしまった。
復路もこだま。太陽光発電多いな。昭和の頃はなかった「もう帰るんかい!」
名古屋。
ブラックサンダーって「全国区」だと思っていましたが「豊橋銘菓」だったのか!初めて知りました。
夕暮れ。実際にはもっと明るいです。2段アンダーにしないと明るすぎて雰囲気が出ない。
これ富士山ですよね?
どうやったらこんな写真撮れるん?
技術?
心がけ?
日頃の行い?
そんなわけない。
天気が良くて夕方で、上りこだま8号車D席に座れば撮れます。
でもこっちの方が「日本」って感じがして好き。
新富士駅付近に工場があるのは知っていました。ただ、この場所から富士山を見たのは初めてかもしれない。
写真を撮っている間もiPodで音楽を聴いていました。
少なくとも音楽製作は既に「コンピュータが存在することが前提」になっているなあと思いましたが、それに異議を唱える人はいない。
ファミレスだって配膳ロボが働いているご時世。配膳ロボに罵詈雑言はきつけるクレーマーはいない。
「AIに仕事を代替される」というのは、要するに「AIが存在することが前提になる」ということでしょう。まだその「端緒」くらいのところにいるのが2024年。
あらゆるジャンルで「AIが使えるという前提」になる、それええやん。
そう思わん?ぴいよ。
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