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休職日記「父との思い出」

 もう、父と会話をすることはほとんどない。

 幼少期の記憶、自分は三兄弟の長男として生まれた。父親は当時三十代で剣道を熱心に行っていた。三兄弟とも剣道家にしたかったようだ。

 父に勧められ、小学校から剣道を習い始めた。小学校の将来の夢には「剣道の選手になって世界大会で優勝すること」と書いた。

 子供は健気だ、父親に愛してもらいたい一心でどうすれば喜んでもらえるか必死に考える。自分もそうだったと思う。父はそんな息子をどう思い、どんな青年に育てたかったのだろう?

 父との関係に大きな亀裂が入ったのは、小学校四年生。当時、父と自分は小学校の体育館で行う、剣友会に通っていた。

 剣友会には、地域の大人や子供が集まっていた。父は有段者だったから剣道の指導もしていた。子供たちに剣道を教える父を自分は誇らしく思っていた。

 ある日、試合があり、父が審判をすることになった。剣友会に通う子供とその父母が試合を見守っていた。相手の子は自分と同い年くらいの男の子だったと思う。太っていて体の大きい子だった。

 父が見ているんだから、格好良く勝ちたいと思った。他の子供や父母たちにも「さすが〇〇さんの息子は強いね」と言ってもらえるように。そうすれば父も誇らしく思ってくれると思った。

 結果は散々で、相手がグイグイ押してくるものだから、押し出しで反則負けになってしまった。一本取られたわけじゃない、押し出しで負けたことが恥ずかしくて悔しかった。それでも相手の子は勝ったことに嬉しそうで、余計に腹が立った。何よりもこんな情けない負け方を父の前でしてしまった自分が許せなかった。

 あまりに悔しくて、竹刀を床に叩きつけてしまった。体育館の中がシン…と静まり返った。あの時、自分は父になんて声をかけてもらいたかったのだろう「悔しい気持ちは分かるけど、そんな態度はよくないぞ」とでも諭して欲しかったのだろうか。

 「面を取れ!」と父は怒鳴った。そして静まり返る体育館の中、悔しさで顔を真っ赤に染める自分の頬を平手で打った。パン!という乾いた音が響いた。

 認めてほしい、誇らしく思ってほしい、愛してほしいと思った父に、大勢の人が見ている前で打たれたことがショックで、怒りと悲しさと恥ずかしさでグチャグチャの感情になった。その場に入れなくなって、衝動的に出口に向かった、どうすればいいのか分からず、傘立ての傘をボンボン放り投げると、裸足で体育館を飛び出し、泣きながら家に帰った。

 その後、帰宅した父に何かを言われた気がするが覚えていない。父なりに叩いた理由を説明したかったのだろう。もちろん自分の態度が正しかったとは思わないけれど、その日から父との間にハッキリと溝ができた。

 子供は敏感だ、父は試合を見守る父母たちの前で息子を打つことで何を守ったのだろう?それは「世間体」だ、父の目は自分ではなく周囲の人々の方を向いていたんだと思った。父を喜ばせたいという思いが反転した。自分は父の道具じゃないと思った。

 その後、父との溝は大きくなるばかりだった。父は剣道や地域の集まりに顔を出して、PTAの会長や町内会の役員を任されるようになった。地域のちょっとした顔役で、夏祭りの準備なども仕切るようになった。一方で自分や兄弟と向き合って悩みを聞くことはなかった。成人するまでは面倒を見るがその後は勝手にしろ、親の脛をかじるな、というのが口癖だった。

 そんな父ももう70代後半だ、剣道を愚直に続け八段まで取得した。今は合気道にハマっているようで、高齢にも関わらず趣味の武道や町内会の集まりに活動的に参加している。側から見ると楽しそうに見えるが、家庭で息子と腹を割って話すことはなく、趣味のYouTube動画をぼんやり眺める日々だ。

 多分この先も父と本音で話す機会はないと思う。でももうそれでいいと思っている。寂しい気もするが、父なりにそんな生き方しかできなかったのだろう。それは自分だって同じだ。ただ、溝ができる前、幼少期の自分は父に愛してもらいたかったし、父が大好きだった。そんな思い出があることが、心の支えになっている。

 

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