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[臍]幻の書物

 嵐の夜だった。ドナルドダックの部屋に本の押し売りがやって来て、わたしは小説を書くという業を背負うことになった。尚、この話は実話である。

 幼い頃のことなので、もう細部はだいぶぼやけている。また、少なくとも二つのバージョンが存在しているかもしれない。
 押し売りは嵐の夜だというのに自転車に乗ってやって来たような気がしている。
 だが、確信はない。
 どちらかのバージョンにはそんな場面があったと思う。
 押し売りが自転車に乗ってやって来るというのは、若干の意味を持つ。
 なぜなら彼は、コートの下に本棚を隠している。
 恐るべき長身である(驚くところそこか?)。
 雨に濡れたコートからしずくを飛ばし、ドナルドダックに本を見せつける。どぎつい表紙のぶ厚いハードカバーが並んでいる。買えというのだ。しかしジャンルは偏っている。どれも殺しの本ばかりだ。
 ここで突然、押し売りはいなくなる。
 本たちを残して。
 ドナルドダックは中から一冊を選び(挿絵が多くて面白そうという理由だ)、ロッキンチェアに座って読み始める……。

 この後に展開したストーリーをわたしは覚えていない。
 記録メディアが異常をきたすぐらい何度もこの話をくり返し観たはずだが、全く思い出せない。
 わたしが惹かれたのは押し売りがコートの内側に隠し持っていた本棚に並んだ書物だった。
 紙の厚みという血肉を持ち、めくればはらはらと音を立てる躰。
 インクの香りが立つ。そこに塗り込められた物語。
 あの本を生み出さなければならない、とわたしは思った。
 幼いわたしは本というものは無数に存在し、同じ本はまたとないものだと思っていた。
 そうではなくとも中身まで設定があるとは思えない、モブの本たちである。
 であるならば、作らねば。他に道はない。

 幻の、書物のイデアを追い求めて今日もわたしは物語を綴っている。

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