【🆗/R18/再掲】　蜻蛉の首

『only yes means yes』がさらに広く浸透することを願い、過去作品を再掲いたします。
　掲載時よりもずっとたくさんの方が私のアカウントへ遊びにきてくださるようになりました。
　官能小説という意味では全く面白味に欠けるかもしれませんが、一人で戦った女性のお話です。大丈夫です、ちゃんとなんとかなります。
　ぜひお読みいただけましたら幸せです。

◇

　こちらは2023年1月17日より前中後編に分割して掲載しておりました【蜻蛉の首】のまとめ版です。通しで読むことができます。

　妊娠および出産、女性の生殖の権利に係るセンシティブな内容を含みます。
　
　また、作中に出てくる『ミレーナ』（IUS）につきまして、正しい情報は必ず医療機関、製造元サイト（バイエルウィメンズヘルス：ミレーナ®︎52mg）にてご確認ください。
　作中登場人物の発言、使用方法等は創作上の表現であり、効果を保証するものではないことをご理解の上お読みください。
　

前編

　結婚してすぐの頃、妻の八恵子は決して華奢ではなかった。
　小柄で、肌がすっきりと白く、どちらかといえばふくふくした、縁起のいいものに喩えるならば餅のような女だった。干支が同じの若妻を貰った。
　とびきりよくできた米で拵えた、旨い餅、誰にもやらない、可愛い八恵子。

　しかし太っているということでもない。
　胸も尻も溌剌とよく張っていて、腰は紐でしぼったようにきりきりくびれている。それでも『華奢ではない』という印象がつくのは、単に大きな胸が布地を持ち上げてしまうからであって、初めて脱がせた時には腹の薄さに血の気が引いた。

　辰真だっていい歳の男だ。
　女とも、数え切れないほどとは言わないが、それなりに寝た。
　だからある程度の脆さは知っているつもりだったが、八恵子は手首も足首も、冗談のように細くすかすかしている。筋肉がほんのこれっぽっちもないふわふわの腹は、たとえば、拳を叩きつけたりなどしたら、いとも容易く千切れて死んでしまいそうでもあった。
　本人は『安いエビフライみたいでしょ、衣ばっかり大きいの』と小さな声で言っており、もっと暗くして、と縮こまった姿をよく覚えている。国道に面したホテルの薄暗がりの中で、日頃キビキビ、テキパキと気の強い彼女は極めて恥ずかしがりだった。

　八恵子について、もう一点ある。
　大のトンボ嫌いだ。

　ああいやだ、と顔を背けるだけの『嫌い』ではなく、一休みしている者をわざわざ捕まえて、かしゅかしゅの翅を掴み、『ぶち』と無理に千切って殺してしまう。
　左右に分かれたトンボを捨てて、また他の1匹を同じように殺す。また捕まえて殺す。また……。
　夕方の田んぼ道を散歩している途中に突如行われた虐殺を止めた時には何も聞かなかった。疲れたろう、帰ろうな、と声をかけて、手を繋いで帰った。

　殺された蜻蛉の山にむらむらと蟻がたかる。

　手首、足首と同じく、彼女の頚椎、すなわち首もぎょっとするくらいには細い。片手でたやすく折れてしまう。女の骨とはこれっぽっちのことなのか。
　辰真は体格がいい。背丈は普通よりも少し高いくらいだが、骨格が抜群に優れている。高校を出てからずっと肉体労働と特殊車両の運転をして真面目に働き、若造の頃から腕っぷしも相当強い。なんの自慢にもならないが、素手の喧嘩で負けはない。だからこんな首、四十路を控えた今ですら、どうということもないだろう。

　ほんの一捻り。
　蜻蛉のそれと同じこと。
　真っ白なうなじにこつんと浮き上がった骨のでっぱりを撫ぜる。
　冷たかった。

『八恵ちゃん、首が細いなあ。トンボみたい』

　言うと、八恵子はなんとか言葉を見つけようとしばらく黙って、見つからなかったのか、そっぽを向いた。憎しみや、もっと言葉にすらできない悲しみで顔色をどす黒くしていたのを、みられたくなかったのだろう。

　辰真も、『ああ、しまった』と思った。

『あのね、辰真さん、私……トンボが嫌いなの』

◇

　辰真は三兄弟の二番目だ。
　二歳ずつ離れた上と下は独身で、いずれも結婚願望がない。
　かく云う辰真も同様で、老いた両親と、昭和元年生まれの祖母は常々嘆いていた。息子が三人もいて、三人揃って四十が見えて、なぜ嫁の一人も来ないのか。特に百歳の方が近い祖母の嘆きは酷かった。老い先短いばあさんに、どうかひ孫を抱かせておくれよというのが口癖にすらなっていた。
　だから辰真が、妻、それも二十代の、ふっくらした腰回りの八重子を連れて来た時、祖母は仏壇に向かって両手を合わせ『これで家が途絶えません』と深々頭を下げたのである。

　ただ、時代が違う。
　女が子どもを産むことを、幸福なのだと強制される時代ではない。
　
　美しい黒髪、真っ白な肌、極薄い茶色の綺麗な瞳をした可愛い八重子のすべすべした両手を取って、辰真の祖母は喜色満面、こう言った。

『四人でも、五人でも、立派な男の子を産める、よく肥えて、いいお尻をしてる。お乳もよーく出るに違いないよ、ああ良い腰だ、ああこりゃいい嫁だ。若い時にうんと産め、辰真よくやった、たくさん子どもをこさえろよ』

　これに真っ青になったのは、辰真はもちろん、その両親だった。
　彼らも年老いてこそいたが、時代の移り変わりに対してはかなり敏感であって、年の割には相当柔軟な人間である。このまま息子たちが独身でも、あるいは、実は同性が好きだと言われても、それはもうそういうことなのだからと受け入れるつもりですらいた。それぞれの幸せがあるのだから。

　ところが、いざ若い女が嫁に来たとなると違う。
　ああやっときてくれた、これでやっと安心だ、と夫婦だって胸を撫で下ろした。
　若くて愛らしいだけではない。聞けば、この辺りでは有名な私立進学高校と、名前を聞けば誰もが知っている手堅い大学を出て、某財団法人に勤めているという。

　これ以上のことはない。
　もうこれ以上の娘さんはいない。

　学業不振に素行不良、喧嘩に煙草にバイクに補導。盗みと性犯罪だけはなかったが、散々手を焼いた次男坊が、まさかこんなお嬢さんを連れてくるなんて。
　なにか、騙されているのではないかとすら思った。
　それくらいのお嬢さんだった。
　だというのに、未だ男優位がしつこい油汚れのように残る社会で働く若い女性に、言ってはいけない台詞を遠慮なしに全て言ってのけた。

　夫婦は慌てふためいて、

　『おばあちゃん、そんな古臭いことを、最近の若い娘さんに言わないで！』

　とこれ以上ないくらいきつく叱りつけた。
　辰真もそのあたりのことは相当気を付けていたから『ばあちゃんいらんこと言うな！』と怒鳴りそうになったが、不穏な空気の中、当の八恵子がにっこり笑って祖母の手を優しく包み、こう返した。

『おばあさま、ありがとうございます。母も私を丈夫に産んだんです。』

　おろおろしていた祖母は途端に安堵して笑顔になり、うんうん頷いて、また『いい嫁だ、いい子を産むぞ、いい嫁だ、いい子だよ』と繰り返す。八恵子も目線を合わせて同じようにうんうん頷き、その後すんなりと話題を切り替えた。

　帰りの車の中で、『ばあちゃんがごめんな』と辰真が謝ると、八恵子は窓の外を眺めたまま『別に、気にしてない』と素っ気ない。帰り際、辰真の両親も繰り返し謝っていた。そうしている中で未だ足腰達者な祖母がせかせか、ホクホク顔で出て来て、八恵子に持たせたのは袋いっぱいの餅と小遣いだった。
　さあ、ばあちゃんの餅をたくさん食って、栄養をつけて、立派な子どもをうんと産むんだぞ。

　そこに悪意はない。
　悪意がないからこそ、傷が深くなる。

『……百年生きた女の人が、戦争もあって、飢饉もあって、国の発展もあって、地震もあって津波もあって、今よくわからないような時代になっちゃって、でも、そういう百年の中で感じた幸福が、子どものことだったんでしょう。それで、私に子どもを産みなさいとおっしゃるのは、幸せになってほしいと願ってくださっているんでしょう。じゃあ、それでいいじゃないのよ。』

　その日の晩、二人はセックスをしようとしたが、できなかった。
　珍しく八恵子から誘ってきたのだが途中からひどく痛がって緊張し、辰真はどうにも可哀想になってしまい挿れなかったのだ。入らないとわかると、八恵子は困惑して子どものように泣いた。それが痛くて泣いているのか、辛くて泣いているのか、ほかにもっと嫌なことがあって泣いているのか、夫がどんなに優しく尋ねてもついぞ答えないまま、妻は縮こまって眠った。

　これが顔合わせ初日、秋の出来事だった。

◇

　結婚して二年。
　二人にはまだ子どもがいない。

　辰真は職場でたびたび『そろそろだろう。嫁さん、若えしよ』と同僚に聞かれ、その度に『授かりモンだろうがよ』と返していた。子どもは、いてもいなくてもいいと思っている。これは誓って本当のことだ。産むのは自分ではない。生理痛ですら代わってやれないのだ。

　近頃、任される裁量がぐんと増えて忙しそうにしている八恵子に、子どもを産んでくれ、などと言う気にもなれなかった。多忙からかすっかり痩せてしまい、ただでさえ細い首がなおのこと細くなっている。
　ちゃんと食事を摂れと再三言っても、会社が別ではどうにもならない。
　昼食を摂る時間もないそうだ。家でもあまり食べず、少し酒を飲んでリビングに横たわっている。会社からなのか社外の人間からなのかひっきりなしに電話も鳴っている。八恵子は辰真の前では電話に出なかった。

　体も冷たい。
　辰真が哀れがって、後ろからそっと首を掴むと、『熱い、でもきもちいい』とくすぐったそうに笑っていた。

　その環境は良くないから、辞めるのはどうか、と提案したことがある。
　八恵子は断じて怒鳴ったり、泣いたりしなかった。
　小さな声で『うるせえな』と表情なく言った。

　辰真が驚いて固まっていると、もっと小さな声で『ごめんなさい』と謝り、翌日は夫に一言もかけず、始発で行って、終電でも帰ってこなかった。迎えに行くから遠慮しないでとLINEをすれば既読と、1時間ほど開けて『大丈夫！』のスタンプを返してくれたが、心配だった。もう帰ってくるだろうからせめて外まで迎えに行こうと出た時、マンションの前にタクシーがつけられて、八恵子が降りてきたときの姿を、辰真は一生忘れないだろう。

　何百人もめちゃくちゃに殺して来たような、恐ろしい形相をしていた。

　ただいま、と玄関を開ける時の彼女は、どんなに遅くなっても、いつも笑っていたからだ。
　辰真に気づくと、ぱっと笑顔になる。
　これは、よくない。
　どうにかしなくては。

◇

　土曜日の夕方に辰真の実家から荷物が届いた。
　中は林檎やら野菜やら祖母からの餅やら、入る限り詰め込んだ晩秋の食べ物だった。餅はもういらないと何度言っても送られてくる。辰真も食べはするが、いつまでも高校生の胃ではない。ほとんど八恵子がどうにかしていた。

　彼女はあまり物を食べなくなったが、餅だけには少しずつ対処しているらしい。
　醤油をかけたり、きな粉を手に入れてかけてみたり、ぜんざいにしたり、ちょっとしたときにもちもちと食べている。おいしいけどいっぺんにはたべられないの、と笑っていた。
　冷凍庫にきちんと並べて保管された丸餅たちは増えたり減ったりするものの、なくなることはなかった。

　八恵子は気にしいであって、季節の果物やちょっとしたお茶請けなどを見繕い、ちょこちょこ辰真に持たせて『お父様とお母様、おばあさまに』と届けさせる。本当なら彼女自身が行きたいらしいが、時間の都合がつけづらい職業だ。
　息子だけが届けるたび、両親は『やっぱり八恵子さんは気にしているのか』としきりに恐縮し、少し認知症のケが出て来た祖母は『子どもはまだか』とにこにこ尋ねた。

　辰真も、祖母のことを邪険にするつもりはない。
　戦後からずっと、よその家の子どもの面倒も見ていたという彼女は、女や子どもが腹を空かせることを何より忌み嫌っている。公園に行けば、祖母の周りには犬やら猫やら、子どもやらがいつの間にか集まった。そういう種類の人間だった。
　根気強く、まだだよ、と教えると、『早くうませてやれ』と叱られる。
　なんとも言えない気持ちにはなった。

　八恵子は俺の子どもを産むために生まれたんじゃないんだよ、ばあちゃん。
　子どもを産むことが幸せな時代でもないんだよ、ばあちゃん。

　言おうとしてやめた。
　百年生きた女の人……八恵子の優しい声が脳裏によみがえったから。
　荷物を片付けたあと、辰真は自室で微睡んでいた。八恵子は土曜日も日曜日もなく働いている。止めても、代休があるから、といって聞かない。その代休をとっているところを見たことがないから止めているというのに。

　それでも旅行の予定などは立てた。
　八恵子は大学生の頃から海外を含めてあちこち行くのが好きだったらしく、各地の温泉や名産をよく知っていた。社会人になってからは出張も多く、仕事じゃなくて、辰真さんと一緒にいけたらいいのに、と遠慮がちに言う。そういうとき、彼女は決まってそっぽを向いていて、表情はわからない。

　もちろんいいよ。八恵ちゃん、どこへでも一緒に行こうよ。
　言うと、青ざめたような顔色の悪さが軽くなって朱が差した。
　本当に、八恵子が行きたいと言うならどこへでも、一緒に行ってやるとも。
　海外だって、英語なんかはさっぱりだめだけれど、税関を通るときの練習だってするから。

　特に、山形のどこそこにあるとかいう有名な旅館に行きたがっている。
　疲れ果ててリビングに横たわり、鳴り続けている非常識な電話には出ず、部屋で寝ようねと迎えに来た辰真を見て、八恵子はしばしば祈りの言葉のように言った。

『ね、辰真さん、今度、山形の温泉に行こうね。』

　今度が、いつまでもこない。

　眠気にぼやけた意識の薄い壁の向こうから、湯を使う音、ドライヤーを使う音が聞こえた。八恵子だ。よかった、帰って来た。ただいまと言ったろうに、返事をしてやれなかったことが申し訳ない。四十肩が忍び寄る肩をほぐしながらリビングへ向かい、ひやりとする。

　机の上に転がる無数の空き缶。
　普段はせいぜいビールを一本程度のはずなのに。
　開襟の半袖パジャマから覗く痩せた首と鎖骨、アルコールの空き缶が、彼女の不健康をそのまま象徴しているようでいたたまれない。
　
「おかえり。飲み過ぎだよ。もうだめだ」

「……」

　どうみても機嫌が悪い妻に構わず酒を片付ける。八恵子は文句を言うわけでもなし、止めるでもなし、ただしんどそうな様子で辰真が立ち回る姿を眺めていた。冬にはこたつになるタイプの低いテーブルの上で腕を組み、じっと黙っている。

「ねえ」

「うん？」

　缶の中身を流しに捨てながら聞き返す。
　なかなか続きがこないので、体を妻の方に向けると、どこともつかない場所をじっと見て、なにか辛いことに耐えているような横顔で、やっと言った。

「生理が来ないの、もう三ヶ月。」　

中編

「そ、それって」

　辰真は濡れた手もそのままに、八恵子の薄い肩を掴んだ。
　妻はそっぽを向いたまま何も言わず、机上のビールに手を伸ばしたので慌てて止めた。

「だめだよ、こんなもん飲んじゃ。一人の体じゃないんだから」

　月並みな台詞が口を衝いて出る。
　ぴたり、と八恵子の手が止まった。
　地雷を踏んだ。
　それだけは分かった。
　
「私だけの体だよ、何様だ、バカが」

　放射状の長い睫毛の影が頬に落ちている。
　薄い紅茶色の美しい虹彩に、唖然とした辰真が映っていた。

「腹になにがいよういまいと、私だけの体だわ。誰のものでもないわ。赤ん坊のものでも、あんたたち男のための体でもないわ。思い上がるなよ、クソバカが」

　恐ろしい顔つきで言い切り、かと思えば、ふ、と嘲笑っている。

「女を入れ物か何かかと思ってんのかよ」

　辰真は実に辛抱強い男だった。
　若い頃なら、いきなり何を、とカッとなったかもしれないが、今は違う。女がこういう風になったら、とりあえず一回黙っておいた方がいいということを、彼は経験則から学んでいた。

「生理なんか、あんなもん、すぐ止まるわ。三ヶ月来なくったって、楽なだけ。いつのどれが当たった、って計算できてんの？　バーカ、心当たりないだろ。何を間抜けヅラで喜んでんだよ、みっともない」

　八恵子が乱暴な言い方とは裏腹、実に悲しそうな顔で横になろうとする。
　奇妙な表現かもしれないが、意思に反して口だけが勝手に喋って、彼女自身が困惑しているようにも見えた。辰真は机を少し退けて、楽な格好を取れるようにしてやった。クッションを探している。
　とってやると、前に抱えて、うん、と頷いた。

「そもそも、私、結婚する前から、ミレーナ入ってるし。デキるわけねえだろ」

「ミレーナ？　八恵子、ミレーナってなんだい。入ってるって、保険とかか。」

「てめえが持ってるその板切れはなんだよ！　調べろよ！　一人の体じゃないだのなんだの臭えこと言うんだったら調べるくらいのことしろよ役立たず！　お花畑してんじゃねえぞバカ男！　間抜け！　新卒の方がマシだわ！」

　アルコールの勢いもあるだろうが、八恵子は激甚だった。
　わかった、ごめんよ、調べるからね、となだめる。ぎーっ、と歯軋りをして苦しがっているのがかわいそうだった。自分で自分を殴ろうとしているのを、片手で止めた。もがかれても、なんともない。

　ミレーナ、と検索すればいくらでも出てくる。
　婦人科のホームページなど初めて見た。

　黄体ホルモン、子宮内膜、月経困難症なら保険適用、避妊目的なら自費。まずは医師にご相談ください、女性医師をご希望の場合は……。

　避妊。
　辰真に理屈はわからないが、図解を見る限り子宮に直接入れる避妊具のようだ。
　
　こんなものがあるのか。子宮の中？　どうやっていれるんだ。
　ぽっかり穴が開いているんじゃあるまいし痛くないのか？　八恵子は大丈夫なのか？　避妊といえば、コンドームや外出し、女の言う危険日を避ける、ピルくらいしか知らなかった。

　一生懸命に読んで、要は一度入れたなら5年避妊効果が期待できるものなのだと理解した。いわゆる中出しセックスをしても、絶対ではないが高い避妊効果が期待できる。

　つまり。

「お餅なんか食べて、妊娠するわけないじゃん、バカじゃないの……」

　とりあえず嵐が過ぎ去った。
　八恵子がぽつん、と呟く。壁側を向いてじっとしている背中が小さい。肩にかかるくらいの黒髪が綺麗で、その幾筋かがかかっている首はもっと綺麗だった。

　ただ、あの蜻蛉の首が過った。
　捕まえるときのように、そうっと首を掴むと、やはり冷たい。
　このまま、ほんの、一捻り。

「八恵子、どうして教えてくれなかったの」

　首を撫で、肩を撫で、背中を撫でてやると、次第に力が抜けていくのがわかる。気持ちよさそうだ。強張っていた体が柔らかくなっていく。

「……」

◇

　八恵子には、辰真の前に付き合っている男がいた。
　二歳年上で名前は門野誠、八恵子にとっては大学の先輩だった。
　八恵子は学士で卒業後そのまま就職したが、門野は大学院に残り、卒後の就職先は同じだった。だから、学歴と年齢は門野の方が上でも、職場では後輩にあたる。それでも顔見知りであり、在学中から親しかったため、二人は自然に付き合うようになり、結婚を意識する関係にまで発展した。

　お互いの親にも会った。
　八恵子の両親、特に母親は、門野にあまり良いイメージを持たなかったと言う。
　父親も乗り気ではなかった。

　門野の両親は八恵子に対して普通だったが、後日門野から『父さんと母さんが、八恵子はもっと痩せないとみっともなくて、見苦しいって。肥満は妊娠しづらいから、絶対痩せろって』と言われた。

　耳を疑った。
　八恵子は確かに痩せてはいないが、病的な肥満でもない。
　自分の体にちょうどいい体重と、体つきだった。
　妊娠しづらいなんて、ライフプランにまで立ち入るなんて、気持ち悪い。
　その時点で別れを考えた。
　少なくとも同居はしないし、結婚しても幸せにはなるまい、と察した。

『でも俺は、八恵子のこと見捨てない。絶対幸せにするから』

　そんな台詞も空虚だった。
　幸せに『する』だの、見捨てないだの、失礼なやつだ、とも思った。
　八恵子は、自分の好きなタイミングで幸福になるから、ほっといてくれ、と常々思っていたから。
　
　かといって、門野は別段、極悪非道のひどい男でもなかった。ずれているところもあったが、いいところもちゃんとあった。
　それでも綻び始めると早い。
　いいところなど、見えなくなってしまう。
　八恵子はもともとセックスが好きではなかったが、『体の相性』というものが確かにこの世には存在するということは分かっていた。女の子の友達連中と遊んでいるときに適当に知り合った年上の男たちとのセックスは良かった。彼らは、自分が射精することよりも、女たちが気持ちよさそうにしている姿を見ることが好き、という理由でセックスに持ち込んでいた。後腐れもなくて簡単だった。

　その流れで行くと、門野との相性は最悪だ。
　ちっとも気持ちよくないし、思春期の女の子たちに向けて描かれた少女漫画の台詞を、べたべた、べたべた、一生懸命喋っている姿にも醒めた。
　女性経験も、おそらくは八恵子以外いなかったろう。
　親もどうかしている。
　プライドを傷つけるのは違うと思い、言及しなかったが。
　
　もう別れたいな、明日、別れるって言おう。
　
　ぼーっと天井を見ながら、演技もしなかった。
　濡れもしないから、馬鹿みたいにローションを使った。
　汚れた布団を洗うのはいつも八恵子だった。
　しんどくて目を閉じる。
　早く終わらないかな。
　もう眠たいな。
　あ、明日、石黒さんに、あの書類のサインもらわなきゃ……。
　
　そう考えていると、不意に門野が言った。

『ああ、やっぱ、ナマってすごい』

　は？
　ぞっとして目を開けると、ひどい近眼である門野の大きな眼鏡が視界いっぱいに飛び込んだ。流行りの、縁の太い、大きなメガネだ。
　八恵子はいつでもその眼鏡を見て、蜻蛉みたいだ、と思っていた。
　
『結婚するんだから、いいよね？』

『……やめて！！』

　押しのけようとしたが、上に覆いかぶさられてはどうしようもない。
　門野は辰真のように立派な体ではなく、むしろ痩せ型だったが、それでも男は男だった。
　八恵子がなんとか逃れたときには手遅れで、膣から精液がぬるっと垂れる。
　反吐が出る思いだった。

『なんで？　ピル飲んでんだろ？　結婚するしいいじゃん』

　部屋の電気をつけて振り返ると、皮を被った性器をぶら下げたバカがニタニタ意地悪く笑っていた。すぐにシャワーを浴び、かかりつけの婦人科に電話をかけた。親切なクリニックで、アフターピル対応のためにいつでも繋がるようになっている。受付の女性に事情を話すと、すぐに対応するから来てください、と言われた。心強かった。
　同時に、もや、と胸が翳る。

　どうして、女の側が、こうなのか。

　女性タクシーを呼ぶ。
　こちらにも事情を話すと、五分もしないうちに到着の連絡があった。
　とにかく下着をつけて、簡単に服を着て、財布とスマホを持ってアパートを出ようとした八恵子の腕を門野が掴む。

『なんだよ？！　感じ悪いな、そんなに子どもほしくないのかよ？！　妊娠が嫌なら、セックスさせんなよ！　ピルも飲んでるくせに、ヤリマン女！　お前なんか妊娠しねえよ、デブ！　それとももう妊娠してんのか？　その腹！　ブタ！』
　
　血管が破裂しそうだった。
　体の末端が凍えた。
　門野は黙らない。
　鼻の穴を膨らませて叫んでいる。

『ほんとはピル飲んでなかったか？　オイ！　なんだよ、ピルなんか、1000円くらいだろ？　1000円もないのかよ、やるよ！　1000円やるから中出しくらいさせろよデブ！　お前が濡れないからナマで入れてやったんだよ、デブ！！』

　八恵子は、ただでは引き下がらなかった。
　丸めて投げつけられた千円札を拾う。

『足りねえんだよヘタクソ、調べとけ』

　腕を振り払って玄関を開けると、騒ぎが気になったのか、外階段下で構えている運転手と鉢合わせた。階段を駆け下りる。タクシーに乗り込んで、行き先を告げる。涙は出なかった。殺してやりたいとも思わなかった。
　ただ、女の体に生まれた自分を憎んだ。
　ひたすら、自分を殺したいとだけ思った。
　死にたいのではない。自分で自分を殺してしまいたいのだ。
　バラバラに、跡形もなく引き裂いて、海にでも捨てたかった。

　結論から言って、妊娠はしなかった。
　ピルを正しく服用していたこと、すぐに対応を取れたこと。八恵子は自分の行動力が自分を救ったことを誇らしく思ったが、同時に、多くの絶望も感じた。

　性行為にも結婚にも、女の幸福などないこと。
　正気を失った男の腕力には敵わないこと。
　自分の体が女である以上、逃れられない不幸があること。
　自分の体を守るために、なぜか多くのお金が必要であること。
　自分が気に入っている体型を憎む者がいること。
　女が産む機械だというなら、男などはただの生臭い精液袋だということ。
　
　こんな自分のところに来なくて済むよう、赤ちゃんを守らなくては。

　そう決意した。　　
　ピルの服用では、かっちり排卵日が来てしまう。
　自分は、もしかしたら門野からレイプされることがあるかもしれない。

　それなら別の手段を取らなくては。

　ミレーナを装着したい、と医師に相談し、内診後すぐにつけてもらった。
　避妊目的だから、7万した。
　中絶費用の20万と身体負担に比べれば、安いものだ。

　よかった、これで自分のところに赤ちゃんは来られない。
　天国で、神様のところで楽しく過ごすか、それか、他のもっと善い人々のところにまっすぐいけるようになるはず。
　おなかいっぱいで、幸せに暮らして。

　よかった。

　よかった、これでよかった。

　赤ちゃんを私みたいな鬼女から守ることができた。

　全て終わってから両親に連絡すると、業火を吐いて怒り狂った。

　父親が乗り込んできて、門野の首を折らんばかりに絞めた。母親も髪を振り乱して飛びかかっていった。八恵子は、縊り殺される人間の顔色というのはああいう色になるのだなとひとつ知った。
　もっとも門野側の両親が、どうかお許しくださいと割って入ったから、殺人事件までにはならなかったが。

　正直なところ、門野側の両親はもっとぐだぐだ言うだろうと八恵子は考えていた。ところが想像に反して彼らは素直で、ミレーナ代やアフターピル代ならすぐに払うから、なんとか、水に流してもらえないか、それで、息子を許してもらえないか、二人でもういちど歩み寄り、やり直してもらえないか、と詰め寄ってきた。

　八恵子は笑った。
　面白かった。

　八恵子の両親はやや過保護気味で、勤務先に、これこれこういうことがあったから、娘と門野氏が接触しないようご配慮いただきたい、と連絡まで寄越した。八恵子の上司である石黒氏は男性で、さらに言えば、八恵子の父の教え子でもあった。
　話は驚くほど早かった。
　
　門野は退職にこそ追い込まれなかったが、僻地の自社工場に異動となり、それからさらに後日の人事異動連絡で、彼の退職願いが受理されたことを知った。
　別れ際、やつれた門野が八恵子に言った。

『子ども殺し』

　八恵子はまた笑った。

『……何言ってんの、受精してても、72時間の範囲じゃあ、初期胚じゃないのよ。産子獲得の確証もないのに、だめよ、バカだと思われるよ、院まで出たのに。そんなの、基礎の基礎よ。生殖工学総論、取ったじゃないのよ。バカねえ。お勉強が足りない、足りない……ふふふ、内膜肥厚もない時期だから、まあ、着床もしなかっただろうけど、万が一があっちゃあ、困るから。ふふふ、ふっふふふふ』

　門野はいよいよ困って、お前なんか一生結婚できない、と言い捨てた。

　あらそう、と八恵子は笑った。
　それなら反証を出しましょう、と、かつて後腐れのないセックスを楽しんだ年上の友人のツテで辰真に狙いを定めた。

　三十も後半の独身、女に縁がないというよりも、結婚に興味がなさそうな強面男を適当に落としてみせようと思った。男はことあるごとに『いや結婚するつもりはないんだ』とか『ああ子どもは苦手なんだよ』とか言っていたが、八恵子が甲斐甲斐しく家のことをこなしたり、寒い日の肉体労働の後、腹にじんわり沁みるようなうまい飯を作って、腕を広げて『おかえりなさい』なんて、にこにこしていてやると、あっけなく陥落した。

『八恵子さん、結婚しよう。』

　そらみろ、男なんか。
　都合の良い、セックス・サービス付きのママが欲しいんだわ。
　勝った。
　八恵子は承諾した。
　勝った。

　砂の城のような結婚なのに、辰真が喜んで抱きしめてくれたことが辛かった。

◇

「……誤算があったの」

「どんなだい？」

　八恵子は勝ち誇っている割に、乱暴なことを言う割に、自分の発言の全てに対して自分で傷ついているのか、もうぼろぼろに泣いていて、辰真は彼女を膝の上に乗せ、抱きしめながら話を聞いていた。

　妻は、男という存在自体に復讐しようとしていて、たまたま自分が選ばれたのかと思うと心が痛んだが、黙っていることにした。

「わ、わ、私……私が、辰真さんのことを、好きに、なってしまった」

「俺を？　なんだ、適当に落としてみたかったんじゃないのかい」

　意地悪で言ってやると、八恵子の大きな瞳にみるみる涙が溜まっていって、うわあーっ！！と声を上げて泣いた。
　近所に聞こえる。通報される。
　
「分かった、うん、分かったよ。分かってる。大丈夫だとも。俺だって、こんなに考え方が変わるなんて思ってなかったんだよ。八恵子ちゃん、ねえ、八恵子」

「ううう、うーっ、うぐうう……」

「俺はね、たとえば、いいか、たとえばだぞ？　本当は、八恵ちゃんが、俺のことなんかこれっぽっちも好きじゃなかったとしても、そのクソ野郎に対する復讐で俺と結婚したんだとしても、全然構わないんだ。俺が八恵子のことを愛してるから」

　はっ、と八恵子が息を飲んだのが聞こえた。

「君がどんな気持ちでいるのか、本当のところはわからないよ。でもね、俺にはね、あの生きた化石みてえなばあちゃんがさ、何回いらねえって言っても送ってくる餅をさ、食ってるときのかわいい八恵ちゃんが、ひどい女には思えねえんだよ」

　真っ白な顔がやっと辰真を向く。
　涙の膜が瞳の上できらきら光っていた

「えっ？　八重子ちゃんよ、俺は知ってんだぞ。地震がありゃ俺の母ちゃんに連絡してくれてんだろう。父ちゃんの好きなビールの銘柄も覚えていてくれてんだろう。俺はそんなの、ちっとも考えたことがなかった。ついこの間なんか、俺の実家に行ったろう。それでよ、ばあちゃんの足の爪を切ってくれたんだってな。俺のとこの連中は、みんな八恵子ちゃんのことが大好きなんだ。あんなにいい子が来てくれただけで、もうこれ以上のことはないってよ。」

　言っているうち、辰真もなんだか泣けてきて困った。

「おう、コラ、クソガキめ。よくも俺の人生を変えやがったな。あのまま独身でいくんだろうと、俺はずうっと思ってたよ。でも、八恵ちゃんが、急に、ぱっと現れたんだ。めんこいのが、突然、にこにこしながら『辰真さん、好きよ』なんてよ。こんなことがあるなんて思ってもなかったさ。十二年も待ったんだ。え？　わかるかよ、コラ、おい、わかるか？　俺は十二年待ってたんだぞ、八恵ちゃんが生まれてくるまで、ずーーーっと待ってたんだ。それなのに、なんだ、そんな、そんな目に遭ったことを、教えてくれたって良いだろう。俺は……」

　喉が熱く詰まる。
　咳払いをする。
　八恵子の顔はもうびしょびしょで、可哀想で参った。

「俺は、君が、元気でいてくれたらそれで本当に、それだけで良いんだよ……」

後編　※ 性的描写があります。ご注意ください。

　八恵子に水を飲ませ、ビールたくさん飲んだからおしっこしたい、もれちゃう、と言うのでトイレに行かせ、常夜灯だけ点けた寝室に呼んだ。
　ベッドが低く、ぎし、と鳴く。

「さーて、……どうしてくれようか。え？　さっきはよくも、俺のばあちゃんをバカ呼ばわりしてくれたな。クソガキ、懲らしめてやる」

「……ほ、ほんとは、思ってない。ほんとだよ……ごめんなさい」

　酒は好きではないと言っていたが、八恵子はアルコールの代謝が早い体質なのですっかり大人しくなっていた。付き合っている頃も多少嗜む程度で、酒乱ということもなかった。ここ最近のストレスを、よくない方法で発散している。

　もっと強く止めたり、あるいは、付き合ってやれば良かった。

　辰真は見た目の印象に反してほとんど飲まない。
　飲めるが、この頃は飲むとどうにも肩が痛むようになって控えていた。
　隣でちんまりと肩を丸めて怯えている妻を、多少痛い目に遭わせる口実などは山ほどある。秘密が多かったことを問うても良いし、暴言を窘めても良いし、人を利用したことを叱っても良かった。
　
「……でも、怒られて、当たり前だと思う……ごめんなさい、気が済むまで、殴っても良いけど、お願いだから、どうか、あんまり、骨とかは折らないで……」

「ふーん、そう。じゃあ、骨が折れないくらいにボコボコにしてやろう」

　言って、その気もないのに握り込んだ巨大な拳骨を見せつける。
　長年の肉体労働と重たいハンドル操作によって鍛え抜かれた辰真の腕は、もともとの骨格の良さもあり、血管が隆々と浮き出てどっしりしていた。
　こんなもので女を殴ればひとたまりもない。
　男の歯だって砕いてしまうのだから。辰真は、できれば、八恵子を傷つけた門野とかいう男をこの拳でバラバラにしたかった。

「……」

　拳を八恵子の頬にそっと当てる。
　ぷに、と柔らかい肉がわずかに形を変える。
　真っ青になって泣いていた。
　歯の根が合わないのか、がちがち、震えが伝わる。
　体も自然と引けており細い手を胸の前に抱えて構えていた。

「あのねえ」

　拳を離す。
　
「八恵ちゃん、こんな可愛いお顔を、どうしろと。俺がどんなに手加減したって、顎なんか、砕けちゃうよ。骨がすぐなんだから。ただでさえこんなに痩せちゃったのに。えっ？　そうだろうがよ」

「でも……でも、辰真さんに、私……」

「そうねえ、よくないことしたねえ」

　八恵子も八恵子で、けじめのようなものはつけたいのだろう。
　次第を知った辰真は何も怒っていないし、敢えていうなら自傷行為のような生き方を少し改めてくれさえすれば、付け加えれば食事を摂ってくれたらなお、それでよかった。

「わ、私、でも、ミレーナは、外したくない……」

「ん？　いいよ、それは、八恵子ちゃんの体なんだから。さっきは、簡単に言ってごめんね。八恵子ちゃんの体は八恵子ちゃんのものだよ。生理痛も軽くなるって書いてあったし、気にせず好きにおし」

　妻が不思議そうに見つめてくる。そうしていると子どものようだ。

「八恵ちゃん、ぽーっとしてると子どもみたい。かわいいね。」

「結構、いい歳だよ」

「いい歳って、干支が同じ子に言われてもなあ。子どもみたい……あ、そうだ」

　これなら、骨は折るまい。

　辰真は思いついて、八恵子を自分の膝の上に呼んだ。
　向かい合わせに座って抱きしめる八重子が一番好きな格好ではなく、腹這いになって、と指示する。八恵子はなんとなく察したのか恥ずかしがって多少抵抗したものの、辰真が怖い顔を作って軽く手首を引っ張ると観念した。

　上半身は左側、可愛い尻が辰真の右の膝の上に乗っている。
　これはいい。
　
「ここなら、ちょっと痛くしても骨は折れねえものな」

「……」

「八恵ちゃんよ、これからどうされるか分かる？　お利口さんだから分かるかな」

　答えないので、試しに一つ引っ叩いてやった。
　パーン！　と柔らかい肉の上でいい音が響く。
　八恵子の背中が反って、あわあわともがいたが、押さえつければ簡単だった。

「はい、どうされるか。分かった人は？」

「……」

「分っかんねえもんかな」

　パーン！　「あん！」

　何か、小さな声で言っているが聞こえないものは聞こえない。
　強情っぱりめ、辰真は構わずに10回近く叩いてやった。

「いっ、っや！　いやっ！　っ、いたあい！　痛いよう！」

「骨は折れないよ、約束通りだ」

「うあ、ああう」

　ふーっ、ふーっ、と背中で息をしている。
　辰真は、もちろん、痛いことをするのはかわいそうだと思っているが、これは新しい楽しみに繋がりそうだった。
　Sっ気があるわけではない。
　ただこうして尻を叩くジャンルがあることは知っている。八恵子が本気で嫌がったらすぐにやめてやろう、と思いながら、辰真の手はなかなか止まらなかった。

「ひっ……はひ……い、た…いたた……」

「結構、強情ね、あなた」

「ご、ごめんなざ……」

「ははあ、かわいい。こういう感じか。」

　ショートパンツのゴムを引っ張って、脅すようにぱちんとする。
　八恵子の丸い尻が怯えて竦む様子が目の前ではっきり分かった。
　特等席だ、と思った。
　ショーツと一緒にひん剥いてやると、驚いて、『きゃあーっ！』と叫ぶから困る。どうか通報されませんように。

　痩せてもなおよく張った尻は、辰真が叩いた通りに淡く色づいていた。ほんのりした桃色だ。寝巻きの薄地でも防御力はあるらしい。これを、直接ひっぱたいたらどうなるのだろう。
　ショートパンツも下着も遠くに投げてやった。

「う、や、やだ……いやだ」

「まだ答えてないね。どうされる、どうされた？　八重子ちゃんよ」

「……う、く、おしり」

「あ〜？」

　脅しで叩く。布の上からとは違う。
　うっすら汗ばんで、吸い付くような肌だった。

「あっ、あ……おしり、……叩かれてる」

「よし、……うわあ、恥ずかしい、八恵子ちゃん。いい歳なんでしょ？」

「……」

　耳まで赤くなっていくから面白い。
　辰真は面白がって顔をみてやろうとしたが、八恵子はぎゅうっと頭を腕で覆って見せてくれなかった。泣いているのかもしれない。

　それにしても可愛い尻だ。
　こんなにまじまじとみたことは今までなかったし、ばちん！と音を立てて叩くようなこともしなかった。
　平手の形が浮き上がってくる。

「百叩きって言うくらいだし、百数えられたら勘弁してやろうか。え？　返事は」

「はい……」

「意地を張るから。もっと早く返事していたら、百なんて直ぐだったのによ」

　腕を振りかぶって、叩きつける。

「うううんっ！！　うぐうう……」

「忘れんな、数〜！」

「ひっ、い、いちっ」

　2回、3回、と尻を叩くと、痛みを逃そうとして足を動かす。
　辰真は怖がらないように背中を撫でてやりながら、自分の右足を重石にして妻の足を固定した。これで身動きが取れない。肩甲骨の間、不安になるほどの窪みを撫で、4回目、5回目……12回目で八恵子は数を数えなくなった。

　数えられなくなったの方が正確か。
　痛いのと辛いのと、とにかく色々と混ざって、えんえん泣き出し数えるどころではなくなったのだ。

　尻はすっかり赤く染まって、倍とは言わないまでも、輪郭が変わる程度には腫れ出していた。右も左も今のところ同じくらいの割合で叩いた。手を近づけると熱を持っているのが伝わる。さぞ痛いだろう。

「泣いてもだめだよ。ずっと叩かれたいなら、いつまででも泣いてろな」

「うえええっ、いだ……いだい、いや…痛い〜、痛い、やめて……」

「数は〜」

　バチン！　「あ゛ーっ！ああう！」

　ん゛〜っ、と聞いたことのない声で痛がり始める。
　次は13のはずだが、14と数えたので、罰として最初からやり直しにしようかと耳元に囁く。無理にこちらをむかせる。八恵子は力なく首を振り、いやだよう、ごめんなさい、もうしません、もうしない、と繰り返した。

　怯えて辰真の右手ばかり見ている。
　髪も乱れて、涙と洟でぐしゃぐしゃになった八恵子。怯えているのに辰真からは離れたくないのかずっとくっついている。

　かわいい。
　下っ腹がずんと熱かった。

「もうやめてほしい？　我慢できないの？」

「い、いたい。お尻いたいの、辰真さん、待って……」

「やめてもいいけど、それだと、八恵ちゃんは勘弁してもらえないことになるよ？　どうする。残念だけど、俺と」

「いやーっ！！！　いやだっ！　いや！！　叩いて！　叩いて大丈夫っ」

　まだ何も言っていないのに飛びついてくる。
　これ以上はもうかわいそうだ。

　もう叩かないよ、となだめても、百回が終わらない限りは離婚になるのだと思い込んだ八恵子は諦めなかった。
　平手が疲れたなら孫の手でも定規でもいいから、と必死の形相で一心に縋り付いてくる。尻を触ると、やっぱり腫れていた。膝立ちになっているのでよく分かる。ぼこぼこと形が変わっていて、痣になるだろうな、と辰真は哀れんだ。

「八恵子ちゃん、八恵子……じゃあ、こうしよう。俺のお願い事を聞けるなら、百数えたことにしてあげる。どうする？　ミレーナを外せ、なんて、そういうひどいことじゃないよ」

　とりあえず横にさせて、辰真も寝そべった。
　顔にかかった髪をどけてやる。明るい色の瞳が逡巡し、頷いた。
　よおし、と辰真が抱きしめると、これ以上ないくらい安心し切って、ふにゃっと笑うから敵わなかった。

「八恵ちゃん、少しだけ仕事を軽くして、飯食ってくれよ。終電で帰ってくるなんてことはやめるんだ。それができるなら、もう勘弁してあげる。」

「……」

　八恵子は少しの間、真剣な表情で黙った。
　辰真に思いきり甘えたい気持ちと、現場の凄惨な状況、自分をどこまで切り売りできるかを比べている。
　彼女だって、自分が今働いている環境がまともだとは思っていない。
　イレギュラーが起きているのだ。専門分野に明るい者が立て続けに体を壊し、復帰までは若手が踏ん張らなくてはいけない。妊娠している職員もいる。無理はさせられない。
　替えがそうそう利かないから専門分野の専門職なのであって、そのあたりの感覚を、辰真に無理にわかってくれと言うつもりもなかった。

　ボロボロになっていく自分を遠くから見ていた。
　このまま倒れたら、何かから許されるような気がして、続けていた節もある。
　人員の補充だって来月にされる。
　でも、細々した折衝や調整がずば抜けて得意なのは八恵子なのだ。
　上司は可能な限り矢面に立って、若い職員が休めるように調整している。
　もう少し。

　もう少しだけ頑張れば、海千山千の職員が帰ってきてくれる。
　
　ぽろ、と一粒落涙した八恵子を、辰真は彼の精一杯で抱きしめた。
　背中をあやしてやって、髪を梳く。
　癖のない、綺麗な髪だ。

（八恵子ちゃん、なにも、今すぐじゃなくったっていいよ。明日はきちんと休むとか、そういうのからでいいんだ）

（……それなら）

（よし、ああ、よかった……）
　
　夫婦でこそこそ囁き合う。
　秘密の取引を交わすように。

◇

　辰真が軽く唇を重ねると、八恵子もそれに応えた。
　はむはむ、下唇を噛んでくる。甘えている時の癖だった。できるだけ優しく、呼吸が楽なようにキスを繰り返し、ボタンを三つ目くらいまで外してやると、ブラジャーをつけていない大きな乳房が甘い匂いと一緒になって、のっしりと果実のようにまろびでた。

　八恵子は服の全てを脱ぐのを嫌う。
　腹を見られたくない、と付き合いはじめの頃に言われた。気にするほどのことは何もないが、本人が言うなら尊重したい。ただ、半端に服を着ている方が扇情的だと分かっているのだろうか。
　ゆっくり、丁寧に揉んでやると気持ち良さそうで、枕の端を噛みながら
『おっぱい、きもちいい。もっと』
　とねだる。これも、甘えている時の癖だった。

　八恵子は、そういえば、セックスするときいつも甘え癖を隠さない。
　気づくと『かわいいやつ』という優しい気持ちで胸がいっぱいになり、辰真は希望通りいくらでも乳を愛撫してやった。

　腰骨に唇を這わせる。
　腫れて熱くなっている尻を少し強めに掴むと、八恵子はびくついて謝った。
　何も謝ることなんてないでしょうよ、ごめんよ、痛かったね。落ち着かせるために抱きしめて顔を見ると、怯えてひきつり笑いをしていた。
　しまった、と思って妻の下腹部をそっと撫でる。

　予想通りだった。　
　膣口は潤っているが、指すら入らない。

　こうなると八恵子はどんどん焦って緊張し、さらに狭くなって、挿入どころの話ではなくなるのだ。彼女はそれをひどくコンプレックスに感じていた。

「大丈夫だよ。ちょっと、リラックスしよう。いやらしいことしてやろうな」

「え」

　恥ずかしがるだろうなと思って今までしてこなかったことを試した。
　クンニリングスだ。
　柔らかい腹、腰骨、太腿のあちこちにキスをして、簡単に下の唇をぺろっと舐める。八恵子は体毛が薄く、ほとんど生えていないから、どうにも罪を犯しているような妙な気分にもなったが、やりやすい。
　予想通り、八恵子は真っ赤になってイヤイヤをした。

「だっ、だっ、だめっ！　だって、さっき、そこ……さっき、私、おしっこしたからだめ……」

「気にならないよ。なんにも」

「うー……」

　息を吹きかけたり、少し指で広げて舐めたり、勃起したクリトリスを吸ってしつこく責める。八恵子の腰が浮いたり沈んだり、爪先がひくひく痙攣している。一度離れて、今度は指を使った。

　もう少し慣らせば、あるいは一度イけば開くかもしれない。
　八恵子を抱き寄せて、一番弱い力で突起を刺激し続けていると、軽く開いていた両足がきゅっと閉じた。ピーン！と伸びて、電気でも流されたのかというほど跳ねる。彼女は恥ずかしがりだが、派手にイくタイプの可愛い女だった。

「ああ、かわいい。気持ちいいねえ、八恵子ちゃん、よかったねえ」

「ん……きもち……きもちー……」

　くたーっ、と脱力してふにゃふにゃになっている妻の耳元に、『ゴムをつけるから、ちょっとのんびりしててね』と告げる。先ほどの話を聞いて、そのまま挿入すると言うのは、いくら夫婦とはいえ憚られた。
　ここで気を遣う事で、八恵子は少しでも辰真の『愛しているよ』を信じてくれるだろうか。

「……辰真さん、ゴム、しないで。」

「いや、だって、八恵子ちゃん」

「中に出して。私、辰真さんに、中に出して欲しいの」

　薄暗がりの中で、八恵子の瞳は不思議と光って見えた。
　艶々していることがわかる。不思議だった。
　女はたまにこういう不思議なことをする。
　
「あの……でも、あの、もし、辰真さんが嫌で…その、私と、もう……」

　言いながら涙声になっていく。
　ここで泣かれてはつらい。そんな悲しいことで泣かないで欲しかった。

「あー、泣かないで、な、八恵子ちゃん、泣かないでよ。泣かないで〜」

「ひ……ひぐ、だって、私、私は」

「良いんだ。え？　良いんだよ。さっき仲直りしたろうがよ。ん……？　闇取引もしたじゃないか」

　闇取引という言い方に、八恵子が、うふ、と笑う。うふふ。気に入ったのか、両手を口のところに持っていて笑っている。
　辰真はゴムをつけず、静かに覆いかぶさってペニスの先端を八恵子に当てがった。ひくひく誘っている様子がいじらしく、位置を確認して緩慢に挿入する。
　普段はここで痛がり、場合によっては悲鳴すらあげるが、今日は違った。
　奥まですんなり入る。
　入ったと思うと、絞り上げるような圧力がかかった。　

「うお」

　きゅっ、きゅっ、と少しずつ引っ張られていく感覚がある。
　吸われているようだ。狭くてきつく、上顎のように段々としていて、八恵子の一番温かい場所が辰真にぴったりくっついて締め上げてくる。

　八恵子はもともと大変具合のいいお嬢さんであって、辰真はいつも堪能させてもらっていたが、今日は格別に違う。妻の顔を見ると、苦しがっている様子も痛がっている様子もなかった。うっとりしている。

「八恵子、八恵ちゃん、痛いことないかよ。ん？　気持ちいい。すごいよ」

「あ、ん……あっ、ウ〜〜〜……」

「かわいい。八恵ちゃん、好きだ。かわいい。」

　腰を打ち付ける速度を上げていく。八恵子の声がどんどん高くなり、その短い悲鳴の合間に『辰真さん、ごめんなさいっ、ごめんなざい〜……』と泣きべそをかいた。それがかわいそうでかわいそうで、気持ちとモノが折れかけてしまい、辰真は体勢を変える名目で性器を抜いた。

　反転させ、真っ赤な尻を突き上げさせて、後背位に移行する。
　間際、八恵子に声をかけた。

「八恵子ちゃんよ、そんなに泣くことないよ。やっぱり、嫌だったかい？」

「いやじゃないよ……気持ちいい」

「じゃあ、そんなに泣くことない。ね。おじさん、泣かれちゃうと、かわいそうでしぼんじゃうんだよ」

「た、辰真さん」

「ん？」

「信じる価値も、ないかもだけど、ほんとに、私、あなたのことが好きなの」

　結局ぼろぼろ泣いている。

「ありがとう。俺だって、八恵子ちゃんのことが好きだよ。さっきも言ったろう？　十二年も待ったんだよ。八恵子、それだけ、俺は君を待てるんだから、なんにも心配しないでいいよ。愛してる。八恵子ちゃんは？」

「私も」

「うん。じゃあ、それでいいんだよ。それでいいじゃないか。かわいいやつめ」

　突き出された尻をぴしっと張ると、びっくりしたのか背中が反った。
　おしり、もう許して。小さな声で泣き言を言ってくれたお陰でよみがえった。少し乱暴なのが好きなのかもしれない。
　ぐい、とねじ込むと、反応が良かった。
　細いうなじが、容易いその骨が目に入る。
　かき消すほどの締まりが来る。

「あん！　あっ、あっ、あ、あ゛〜〜、う。い、あ、あんっ！」

「すっごいな、後ろが好きか。今度から、えっ？　八恵ちゃんよ、お尻百回叩いた後に、後ろからこうして仕上げてやろう。お仕置きしような。」

「うう〜〜〜っ、きもち、い、うああ、いた、お仕置き、いやだあ。……うぐ、おしり、いたいっの、いやっ」

◇

　八恵子の頭は白くちかちか光って、眩しくてたまらない。
　辰真が太い腕にものを言わせて腰の両側をぎゅっと掴んでくる強さがいい。お仕置きをされて真っ赤になっている尻も丸見えで、そんな恥ずかしい状態なのに、いいところにペニスが当たって、もっと、もっと、と腰を振ってしまう。
　はしたない。でも止められない。

　ああそれにしても、あんなにひどいことを言った自分を、辰真さんは本当に許してくれたのだろうか？　
　あんなこと言わなければよかった。
　ひどいことなんかしなければよかった。
　秘密にしておけばよかった。
　あんなことを言ってしまったら、どんなに好きだと言っても、もう信じてもらえないに違いない。本当は、心の底では、怒っているに違いない。このセックスが終わったら、自分は捨てられる。当然の罰だ。それくらいのことをした。

　でも、いやだ。
　いやだ、いやだ。
　やっぱりいやだ、捨てないで。
　旅行がしたい。一緒に行きたい。山形のあの温泉。いいところなの。
　辰真さん、今度行こうね。一緒に、今度……。
　許して。
　ごめんなさい。
　助けて。

　こんなに大事にしてもらえるなんて、誤算だったのだ。
　本当に誤算だった。
　あの蜻蛉眼鏡の呪いが薄れるくらい、辰真も、その家族もみんな、八恵子のことを大切にしてくれたのだ。だから、ミレーナは、五年の期限がきたら黙って外したっていいと思っていた。都合よく赤ちゃんが欲しいだなんてそんな図々しいことは思っていない。
　ただ、外すという選択肢が自分にはあるのだと思い出した。

「たつ、ま、さん……ごめんなさい……言うこと聞くから、すてないで……」

◇

「捨てないったら。」

　錯乱して泣き喚き、その体力も底を尽き、ベッドで力なく横たわる八恵子をだきしめながら何度も言った。数えてはいないが、最低でも百回は言った。
　射精したあとに特有の甘美な気怠さの中、やはり辰真という男は根気強かった。
　
　水を飲ませてやると少し落ち着き、しくしく泣いてはいるものの、破滅的なことはやっと言わなくなった。
　一安心して寝かしつけに入る。背中を軽く叩いてやると妻が安らいで眠ることを彼はよく知っていた。
　しばらくは目を離せない。

　明日は休む（というよりそもそも休日だが）と言うし、1日一緒に過ごそう。買い物へ行きたがるか、それとも、家でよく眠らせるか……。甘いものを買ってやろう。それから、食事は、全部八恵子が好きなものにしなくては。不健康に痩せた分を取り戻させるには、何が一番いいだろう。

「八恵子ちゃんは、明日、なにが食べたいか……」

「おうどん」

「ああ、おうどん。いいね。おうどんにしよう」

　不意に、八恵子のスマホが鳴った。
　まどろんでいた八恵子がびくんと起き上がる。不明な発信者と表示されたスマホを凝視している様子から、辰真ははっきり察した。

　ここ数日の着信。
　辰真の前では出ない電話。
　八恵子を抱きしめたままスマホをとる。
　相手は予想通りだった。

『おい、八恵子、いつまで捻くれてるんだよ。そろそろ』

「……てめえか、コラ」

『えっ、あれ？　すいません』

「あれじゃねえ、おい、てめえが門野だろう。ああっ？　俺の女にビービー、ビービー、てめえ、気色の悪い電話かけやがって、おう、コラッ！！　どういう了見してんだ、オラッ！！　オイ！！」

『あっ』

　切れてしまった。
　番号を着信拒否にしてから八重子に返す。
　彼女は大きな声の恫喝に驚いて震えており、何も言わなかった。
　もう一度一緒に横になる。

「さ、寝よ寝よ。おうどんな。よし、起きたら、○○号沿いのとこの、あのうどん屋に行こうね。俺はサツマイモの天ぷらも食いたいな。八恵ちゃんは？」

「えび」

「よし、えび、好きなだけ乗せちまえ。」

「うん」

　えび、2つ食べてもいい？
　八恵子が尋ねるので、そんなもん、遠慮しないで好きなだけ食べなさいよ、と返した。そうすると今度は、しいたけも食べていい？　ときたものだ。
　辰真は笑って、いいよ、と言った。

　このお嬢さんを、どうして粗末に扱えるのだろうか。
　天ぷらの品目について問答を繰り返しているうち、辰真も八恵子も眠くなって、二人は久しぶりによく眠った。

◇

　辰真が目を覚ましたのは10時を少し過ぎた頃で、隣に八恵子はいなかった。

　ぎくりと背筋が凍ったが、彼女が眠っていたであろう場所を触るとまだ暖かく、起きたタイミングはあまり変わらないようだった。
　それでも姿を見るまでは不安を拭い切れず、用足しもせずにリビングへ向かう。
　姿がない。
　おい、待て、闇取引はどうした、百叩きじゃ済まさんぞ。
　さすがに頭に血が昇りかけたとき、ベランダに続く大窓が開いていることに気づいた。レースカーテンがひらひら揺れている。
　サンダルを履いた白い脹脛が見えた。

「八恵子ちゃん」

「ん？」

　泣きはらした顔が振り向くので力が抜けた。
　髪もまだあちこち寝癖がついて、本当に先ほど起きたのだと分かる。

「そんな薄着で、だめだよ。何してるの」

　夢ではないことを確かめるために八恵子の腰を抱きよせる。
　柔らかい。暖かい。細い首に脈もちゃんとある。
　急激に脳が覚醒し、視界もはっきりした。

　秋晴れだ。日曜日の空の一番高い場所を、風がさらさら渡っている。
　隣の駐車場で子どもが遊んでいるのが見えた。網を持っている。

「蜻蛉がね、ほら」

　指差した先、ベランダの欄干に赤いのが一匹休んでいる。
　手を伸ばせばたやすく届く位置だ。
　殺すのだろうか。
　妻を後ろから抱きしめたままじっとしていると、彼女が人差し指で蜻蛉を突いた。ぱっと飛び立って、ツイツイ空を切る。八恵子はもう構わなかった。

「なんだ、蜻蛉みてたのか。嫌いなのに」

「嫌いだよ。嫌いな奴に似てるのは変わらないし。でも、あっちいっちゃったから、もういいや。」

「本当に、見てただけ？　変なこと考えてなかったろうね。」

「考えてないよ〜。おばあさまからいただいたお餅をね、あられにするのもいいかなあとかは、考えてたけど」

「なあ、あれな、無理して食わなくてもいいよ」

　八恵子が薄い肩をひょいと竦める。

「私ね、あのお餅、好きなのよ。おばあさまのこともね」

　少し黙って、もう一言付け加える。

「それから、あの、辰真さんのことも」

「おお、やった！　餅と並んだ。お祝いをしよう。うどんを食べよう」

　忘れずに、

「俺も八恵子のことが好きだよ、愛してる」

　と言うと、八恵子が、肩の荷をやっと下ろした時の安らかさで笑った。

　駐車場の子どもらが蜻蛉を追い回していることがはしゃぎ声で分かった。
　こまかいガキども、菓子をやるから、その憎たらしい蜻蛉みんな捕まえて、あっちの野っ原へやっちまってくれ。車に気をつけて行け。

　辰真は心底そう思う。

　秋の風が、さあーっと柔らかく膨らむように吹き上がって、八恵子の髪を持ち上げ、真っ白な細い首を露わにしてみせた。

　空が青いせいで、うっすら陰になった顔が余計に白い。
　蜻蛉なんか、とんでもない。

　可愛い八恵子。
　笑っておくれ、元気だったらそれでいいんだから。
　愛してる。
　
　明るい虹彩が光っている。

　ほんとはね、と八恵子は慎重だった。
　

「ほんとはね、私も、あなたのこと愛してるのよ！」

　

【了】