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【🆗/SM/R18】 Fused Glass (5)


前回⬇️


◇ ◆ ◇


 会うたび、新菜の体からはアザが薄れてゆき、互いに本名を明かしてから3回目の食事のあと、ホテルで衣服を脱いだ彼女の肌は少し日焼けをして、どこもかしこも健やかだった。

 季節は夏の盛り、大学生には夏季休暇があるが社会人には無い。特にその年度についてはどうもややこしい案件が続き、正己は細胞培養スケジュールの都合上盆休みすら返上する始末であって、実に気の毒そうな顔をした新菜から『働くって大変だなあ』と憐れまれた。

 そんな顛末の中、久しぶりに会えた土曜日の夜、二人でいつものうどん屋に入って、正己は冷やのぶっかけを大盛りに天ぷらといなり寿司、新菜は温かいぶっかけの並にかき揚げを頼んで食べた。正己はいなり寿司を気にして見つめている新菜に気づいてひとつ遣り、おいしい、と喜ぶ姿に安堵した。若い女の子が何か食べている姿を見ると嬉しい。新菜は軽い化粧の時、年齢よりもずっと幼く見えるため、側から見れば援助交際を疑われても不本意ではあるが納得する部分はあった。SMプレイの後、ホテル街の駅近くをうろつく人々の視線は平気でも、飲食店でチラチラ向けられる家族連れからの視線はなかなかきつい。それでも、正己は新菜が『好きだ』とするうどんを食べている姿を見るのが好きだった。

 国道沿いのホテルに入って、取り止めもない話をした。セックスはしていない。一緒にシャワーを浴びたり、そのまま裸で布団に入りはするが、新菜は正己にくっついて、素肌のまま抱きしめられると安心するのかすぐに眠ってしまう。お腹がいっぱいで、風呂に入って布団に入って、隣に自分よりもずっと大きな人間がいると安心するらしい。正己は正己で、無理に起こして犯したりもしないため、これなら今度から自宅に呼んでもいいか、と思っていた。

 正己が出た大学の研究室の話や会社の話を、新菜は喜んで聞いていた。彼女とは違うタイプの理系の研究室だが、置いてある機械が同じらしい。もっとも年齢が違うから、約10年の違いの間、特に外資系のメーカーは吸収合併を重ねており、正己が癖で昔の社名を口にするたび『そんな名前だったんだ』と興味深そうだった。
 社外秘の事項については一切話さなかったが新菜は楽しそうで、学生らしく油断して卒論はあれをテーマにしようと思っているだとか、院生はいつも研究室にいて夜な夜な麻雀を打っているだとか、時々先生も混ざっているだとか、色々と教えてくれた。理系と麻雀はいつの世代でも切り離せないのかもしれない。

 余計なお世話と思いつつ、研究のことはたとえ卒論でも、お外で話してはいけないよ、と嗜めると、にこにこおしゃべりしていた新菜は信じ難いほどしゅんとして、ちょっと小突けば泣き出さんばかりに涙を溜めて『ごめんなさい』と消え入りそうな声で呟いた。そこまで責めるつもりは無かった正己は驚き、次から気をつければいいんだから、と励ました。最近の子だ、と思った。

 脆く、傷つきやすく、壊れやすい。
 薄いガラスが軋んで、ぱき・・と割れる。

 あるいは、若者が壊れやすいことを、世の中がやっと認め始めた。それか、壊れることを許され始めたのか。取り返しがつかないほど壊れた者がいることを、世間がやっと認めつつある。
 壊れた者は、壊れたまま。
 世間だけが時代と共にその面差しを目眩めまぐるしく変えてゆく。
 いつのまにか『普通』の中身を書き換えて、知らんぷりして、流れ続ける。

 新菜と色々と話をする中で、正己はひとつの地雷を見つけた。

 家族の話だ。

 正己の生まれは北関東の大きな農家で、米や野菜を育てて生業としている。父が近くの農業高校の教員を勤めており、同じく農家から嫁いできた母と、長男である5つ年上の兄が家のことを回していて、正己自身は家には関わらない仕事をしている。特にそこについて家族から何か言われたこともないし、家族仲は良好であって、毎年一度は顔を出して様子を見ている。正己の両親や兄は、ちょうど良い距離感を保てる成熟した人間だった。
 新菜は正己の家族のことには触れず、育てている農作物や、肥料のことについて尋ねてきた。家族の話題を避けるような印象があったが、正己にとって家族というのは多少揉め事があったとしても、誰にとっても本来平穏安寧な拠り所であるものだと信じていたから、つい、聞いてしまった。

 新菜さんの家族は?

 ぴしりと凍った目つきが、赤の強い虹彩が、冷徹に『家族』を拒んでいる。
 しまった、と正己が自分の浅はかさを悔いて撤回するよりも前に、新菜は短く、殺すように、死んだ、と言った。


◇ ◆ ◇


 新菜は正己との間に、一定の距離感を保つよう心がけているようだった。ずるずると依存するわけでもなく、正己が住むマンションに入り浸るわけでもなく、外食の際には必ず支払いを申し出る。
 同じ社会人ならまだしも、学生から金を取るわけにはいかないと思って一度も受け取らなかったが、新菜はめげずに財布を持って現れた。
 関係性にそれなりの名前をつけるには不十分な二人の距離感をもどかしく思ったのはむしろ正己の方であって、しばしば、新菜に彼女自身のことを尋ねた。尋ねなければ、新菜は自身のことを語ろうとしなかったから。

 いつも、冷たい目をして、彼女は自分のことについて淡々と答えた。
 そして必ず最後に『私の話なんかのことは、どうでもいいよ』と付け加えた。

 短い問答を積み重ねて知った新菜のことを繋ぎ合わせると、正己と同じく北関東の出身で、今は治安が良いとは言い難い区域の格安アパートに住んでいて、講義に出る他はひたすらアルバイトをしていて、奨学金まみれで、友だちはおらず、両親は故人で、SM掲示板を覗くのは好奇心からで、18歳の頃、よくない男に当たって、SMプレイを称した拷問と強姦があって、妊娠検査薬に陽性が出たが化学流産でほっとした……とのことだった。
 駆け抜けるような人生だ、と正己は思った。
 
『嫌な目に遭ったのに、どうしてmasochistとして書き込み続けたの?』

 正己の悪い癖だ。
 相手を傷つけようなんてつもりは誓ってこれっぽっちも無いのに、事実を知りたいという気持ちが先行した聞き方がいつも災いする。
 この場合は、新菜が辛い目に遭ったことが可哀想で、酷い目にあって欲しくない、書き込みをすれば少なからず痛めつけられるというのに、なぜやめなかったのか、と心配しての質問が正己のしんなのだが、とても伝わらない。
 あなたの優しいところを察しとるには慣れがいる、と言われたことがある。裏を返せば、慣れなければただの無神経だぞ、周囲の善意がなければお前はただの無礼者、単なる嫌な奴なんだぞ、との警告であると気付いたのは、働き始めてからのことだった。気づいてよかった。ぞっとして、気をつけるようにしていたのに。
 分かっていたのに、やってしまった。
 訂正しようと思っても、新菜の瞬発力には追いつけない。

『どうして?』

『ああ、ごめん、そうじゃなくて……』

『私は、私の体が気に食わない。自殺する勇気もない。いつか殴られ続けていたら死ぬかもしれない。死ねるかもしれない。殺されるという意味になるかもしれないけれど、私はそうありたい。私が気に食わない私の体を、女を殴りたい男が壊してくれる日を待ってる。クソみたいな男が。私のアソコやおっぱいに釣られていくらでもくる。いつかその日が来る。死ぬくらいの暴力を誰かのせいにしたいだけ。あなたは』

 そこで一度、新菜の言葉が苦しげに途切れた。それでも一瞬のことだ。正己はその一瞬を救えなかった。

『あなたは、一番、やってくれそうだったのに!』

 吹き付ける向かい風に真正面から立ち向かうように、新菜は両足を強く踏ん張って、拳が真っ白になるまで握りしめて、涙をはらはら流して喉を膨らませて叫んでいた。心に体がついていけずに流れる、感情の切れ端、魂の本質、怒りそのもの、悲しみそのもの、透明な憎しみ。

 炎を吐かれてもおかしくない、と思った。

 焼き殺されてもいい。
 肚を括って、そーっと抱きしめると、新菜は声を出さずに、口を大きく開けて泣いた。

 耳には聞こえないのに、心にはガリガリと響く、轟々と唸る怪獣のような、途方に暮れるほどの泣き声だった。




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