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普通卒業

ただの社会人。ただの人。ただの男。何者でもない者が書くエッセイに、価値はあるのだろうか。


いや、価値なんかあるわけがない。何者でもない者が書くエッセイは、ただの日記と同じだ。


友達でもない人間の日記に興味が湧く人はきっと世界中で僕かどっかの物好きな変態くらいだろう。価値も需要もないのに、それでもなぜ僕は毎日エッセイを書き続けているのだろう。


それはきっと「何者かになりたい」という欲求を捨てきれていないからだ。社会の歯車として生きていく覚悟を決めたはずなのに、どうしても捨てる事ができない感情。


誰かに認められてたい。持て囃されたい。有名になりたい。人気者になりたい。特別になりたい。そんな汚物のような承認欲求を誰よりも強く持ち合わせているのが僕だ。こんな気持ち、誰にも話せない。


みんなに認められ、褒められ、有名になり、人気者になり、唯一無二の特別な人間になれることを夢見ている。でもそれにはなんらかの手段がないと無理で、僕にとってそれは文章でありエッセイだった


エッセイを書くことが、一番有名になれる可能性があると踏んだ


小説を書くことは僕にはできない。挑戦してみたことはあったが、頭で思い起こした物語を文章に起こすのは困難を極めた。でもエッセイは違った。自分の身に起こった出来事を詳細に書き記したり、思考を文字に起こすのは難しくない。


これさえあれば、これが認められれば。ほんの僅かな可能性に賭けてみたかった。


現実は甘くない。そんな夢物語、叶うはずがない


YouTube始め動画コンテンツが隆盛している昨今で、どれだけの人間が活字を読もうと思うのか。しかもただの素人が書く拙い文章を誰が好き好んで見てみようと思うのか。


悩み、病み、迷走する


それでも毎日は矢のように過ぎ去って、僕は歳を重ねていく。社会的責任もどんどん大きくなって、やがてそれが足枷となり何にも挑戦できなくなる年齢がもうすぐそこまで来ている。


「普通」という生き方のありがたみをいつかのエッセイで書いた気がする。
世の中普通に生きることすらできない人がたくさんいて、その中で僕は普通に生きることができているのはとんでもなく幸せなことだとした。


その思考は、観念は、僕が普通に生きることを肯定しようと必死になっている証拠でもある


本当は誰より特別な人間でありたいし、このままただのサラリーマンとして一生を終えることに疑問を抱いている。もうこれは隠しようがないほど顕在されていて、どうにか普通を卒業しようと足掻いているサラリーマンの文章が僕のエッセイだ


誰かを勇気づけたいとか世の中を良くしたいとか、そういった高尚な欲求は僕のエッセイとは全くと言っていいほど無縁である。


僕は僕が普通を卒業するためにエッセイを書く


ここまで書いてきて思ったが、僕は普通どころかクソ以下だ。もうどうにでもなればいいんだ。一生ほざいてろ


鼻をかんだティッシュをゴミ箱に向かって投げた。綺麗な放物線を描いたそれは、ゴミ箱の縁に当たってベッドの下に転がり込んだ


僕はこの鼻かみティッシュを、僕が普通を卒業するまでゴミ箱に入れないことに決めた。こうなったら意地である。

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