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「親切な日本人」であり続けたい。

外国人から見た日本人は、“とても親切な人たち”だという。道を尋ねても細かく教えてくれるし、途中まで一緒に行ってくれる。困ったことがあると、頼まなくても助けてくれる。

日本人としては当たり前のことが、外国人には凄いことのようである。他の国では、そこまでしてくれる人は少ない。世界から見れば、特異な文化なのである。

日本人は、「人には親切にしろ」と、子どもの頃から刷り込まれてきた。意識することなく、“親切心”を発揮できる人種なのである。非常に誇れる特性であることを再認識すべきである。

ところが、世の中が荒んできたのか、この“親切心”を利用して、犯罪を目論む輩が出没している。

海外ではよくあることだが、親切にするフリをして、バッグや財布を持ち逃げする。淋しいお年寄りに近づき、詐欺を働く。道を尋ねるフリをして、子どもを連れ去る。人が信用できない世の中になってしまった。

こうなると、「人には親切にしなさい」と、子どもに教えることができなくなってくる。「知らない人に話し掛けられても、無視しなさい」と言わざるを得ない。

「子どもに親切心を教えるのか」、それとも「子どもの命を守るのか」を選択しなければならない状況に追い込まれている。親としては、命を選択するしかない。

このまま“親切心”を教えられないで育った子どもは、どんな大人になるのか。人を疑って掛かる人間になりはしないか。非常に不安ではある。

では、大人として、困っている子どもがいたら、どうすれば良いのか。

怪我をして泣いている。迷子になっている。そんな子どもがいれば、当然大人として声を掛けるだろう。だが、子どもは「知らない人に話し掛けられても…」と、教わっている。

無視されるかもしれないし、逃げてしまうかもしれない。まわりに人がいたら、不審者に思われるかもしれない。こちらは“親切心”から声を掛けようとしているのに、疑われてしまうのである。

そう考えると、声を掛けることをためらってしまう。助けてあげたい、という思いを封印しなければならないのである。あまりにもおかしな、淋しい社会ではないか。

それが当たり前になってしまうと、“親切心”などという気持ちは失われてしまう。“親切心”は、外国人も認める、日本人の美徳である。決して、失ってはならない。

ならば、無視されようが、変な眼で見られようが、困った子どもがいれば、声を掛けるべきである。たとえ嫌な思いをしても、めげることなく、声をかけ続けようではないか。信じて、助けを求めてくれる子どももいるはずだから。

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