【小説】 恋に落ちる2
ヒロナは困惑した。ステージの上で伴奏を弾く男の子は、全校生徒による校歌斉唱が終わると、エキシビジョン演奏ということでクラシックを弾き始めたのだ。そして「一年生は合唱の準備を始めてください」というアナウンスが入った。“つなぎ”として、彼のピアノがホール内に反響した。
“あ、ドビュッシーだ・・・”
曲名は分からない。しかし、ヒロナがクラシックを聞くようになってから、何度も耳にしてきた曲だった。ロックンロールを知らないコンプレックスから、貪るように聞いてきたクラシックピアノ。曲名が分からなくても、誰が作曲したものかは、なんとなく覚えていた。
右手だけの長いトリルから曲は始まった。片手だけとは思えないほど粒だった音、華やかな音がこぼれ出す。カラフルな雨が降ってきたみたいだった。校歌の伴奏とは正反対の、やさしいピアノのタッチ。静かで人の気持ちをゆるやかにする。iPodから流れる音とはまるで違う。本物の音。グランドピアノのきれいな音。胸に染みる感じがした。
しかし、ホール内では一年生がざわりと動き出し、扉は開かれ、充満してたはずのエネルギーがひゅるひゅると流れ出てしまった。空気の抜けた風船みたいに。ああ、もったいない。
男の子の前髪からは、汗のしずくが流れ落ち、とがった鼻筋をすり抜けていくのが見えた。冷たい霧に包まれているみたいな背中をしているのに、雨に打たれたみたいにずぶずぶに濡れている。ヒロナは役に立たない自分の指をギュッと握りしめた。
“男の子がピアノを弾くって、いいなあ・・・”
素直な思いがヒロナの胸の中に生まれていた。それが恋とも分からぬままに。
ピアノ曲としては、珍しく5分を超える長尺の曲を弾き切った男の子は、小さく頭を下げて、再び鍵盤に指を置いた。
気付けばステージには一年生のクラスが整列している。指揮者が手をかざすと、ガタガタと音を立てて生徒たちは足を肩幅まで開き、例の男の子の伴奏で課題曲の合唱が始まった。これまでとは打って変わって、まるで主張しない、影になったような演奏。心臓にかいた汗も、徐々にひいていくのが分かる。
夢から覚めてしまった時みたいに、ヒロナの世界がさっと途切れた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?