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【小説】 食事の前に。


「最近、抜け殻みたいになってるわね」
 その日は、珍しく母の帰りが早かった。
 夕食の支度をしながらヒロナを出迎え、顔を見るなり闊達と笑う。
 鍋がコトコト、そこから野菜の甘い香りがする。
「え、そんなことないよ」
 胸の裡ではギクリとしているのに、つい否定してしまう。
 母は、「ふーん」と再び料理に取り掛かった。
 コトンコトンという包丁の音を背に受けながら、ヒロナは自室で部屋着に着替えた。

“やっぱり、私、落ち込んで見えるのかな・・・”
 姿見に移る自分に話しかけるが、声は出なかった。
 顔も身体も目立った変化は見られない。
 まだ肌にはキメ細やかがあるし、毛穴も閉まっている。
 身体こそ大人っぽくはなっていても、テレビや雑誌で見るような大人の女性に滲む艶やかさはカケラもない。
 高校卒業を目前に控えているからといって、急に成長するワケがないのだから、変化がなくて当たり前だ。
 でも、母には、何かが違ってみるのだろう。

「買い物には行ったんだけど、先に冷蔵庫の残りモノを消費したくて、今日はポトフね! ユキトはまだ帰ってこないでしょ? 先に食べる?」
 距離の取り方を知らないのだろうか。母の声の大きさに驚いた。
 ヒロナは適切な声の大きさで「まだ大丈夫」と答え、テーブルに用意されていた紅茶を一口飲んだ。
 台所からはチャカチャカと料理音が響いている。
 ヒロナはポーッと、一日を振り返っていた。
 先ほどまでの会話はなかったかのように、時間はトロトロと流れていく。
 
「なんかさ、最近やる気が出なくて。どうしたんだろう私」
 無意識のうちに口から声がこぼれていた。それも、母に聞かせるような声の大きさで。
「・・・なんか、原因はあるの?」
「・・・分かんない」
「そっか。まあ、そんなもんよね」
「こんなこと今までなかったんだけどなあ・・・」
「そんなことないわよ。テスト前はいつもボーッとしてやる気ない感じだったじゃない。かと思えば急にスイッチが入って猛烈に勉強したり。あんたはいつもその繰り返し」
「え、そうかな・・・」
 意識していない自分を指摘され、過去の記憶を引っ張り出そうと脳が急に動き出した。まるで、もう一人の自分の話をされているみたいで、恥ずかしい。
 ミウも似た視点を持っているけど、一番、身近な母に客観的な意見を言われると説得力が違う。

 「はい」と、ご飯より先に、テーブルにはたくあんの漬物が置かれた。
 おばあちゃんから送られてきた自家製のモノらしい。スーパーで売っているものとは違い、色は乳白色に違い黄色をしている。
 母は台所に戻ると、何かを思い出したように、
「あ! でも確かに、年末くらいから、ヒロナの様子が変わった気がする」
「・・・うん、レコーディングくらいからかも」
 あまりにもピンポイントを突かれたことに鳥肌が立った。
 家にいる時間が短いはずなのに、娘の微妙な変化を見逃さない母に畏敬の念が湧く。
 これが、シングルマザーとして生きる覚悟を持つ、母の強さなのかもしれない。
「じゃあ、レコーディングで何かあったんじゃないの?」
「なんかがあったワケじゃないんだけど。私だけ置いてけぼりにされてる気がしたというか・・・」
 ヒロナは白状するように、胸の裡を語った。

「アキちゃんは変わらず凄い才能があるし、ミウはこのスケジュールの中、勉強も音楽もキッチリこなす。マキコちゃんだって、一つ年下なのに、しっかりとついてくるから、私だけ進歩してない気がするのかも」
「なるほどね。私からしたら、ヒロナも十分進歩してると思うけど、本人的には色々あるのね」
「そういうことなのかな・・・」
 少し間を置き、
「たぶんだけど、足りすぎてるのかもしれないわね」
「足りすぎてる?」
「そう。たぶん、あなた、幸せなのよ。いま」
「しあわせ?」
「そんな気がする。たぶんね。」
 母は言葉を選んでいるようだった。
 無責任にならないように。朗らかに、諭すように話を続け、
「こう思ったらラクになるわよ。『これもまた、過ぎる』って」
「過ぎる・・・?」
「お母さんは仕事で追い詰められた時に、ずいぶんこの言葉に助けられたの。苦しい時は、特にね!」
「これもまた、過ぎる・・・」
「そう。どんなに苦しくたって、いつかは必ず過ぎる。それは、調子がいい時も同じことよ。今のままの状態が一生続くことはない。いつかは、必ず過ぎるの」
「・・・そっか」
「だから今の自分を受け入れて、目一杯、悩みなさい。アドバイスになってるかは分からないけど、いつか、必ず過ぎる悩みなんだからさ!」
 ヒロナには、まだ母の言葉の本当の意味が理解できていなかった。
 しかし、微かにだが、胸がフワリと軽くなるのを感じる。
 話が終わる頃、テーブルの上に料理が彩られた。


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