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【小説】 リオンのピアノ2


 彼がピアノをポーンと鳴らす。音が波紋となってホールを満たした。
 胸がクーンとする。
 たぶん、みんな同じことを思ったんじゃないかな。うまく言えないんだけど、その一音を聴いただけで、とにかくクーンとしたんだ。

 前の曲は、軽やかなステップを踏むようなカラフルな演奏だったが、今度はなめらかで優しく人の心に寄り添うように曲がはじまった。
 フランツ・リストの「愛の夢」第3番。
 曲名を知らなくても、誰もが聴いたことがある有名なメロディだ。冒頭からしっとりと美しい旋律が始まる。まさに夢の中に溶けてくみたいな、幸せな気持ちに包まれていく。
 彼は甘美な音色を身体で味わいながら演奏していた。上体を揺らし、かと思えば、息を止めているかのように繊細に指を走らせる。じっと鍵盤に目を落とし、まるでピアノと会話をしているみたいだった。
 同じ高校生とは思えないほど、情緒的な演奏だった。

 まさか高校一年生の青年が、こんな豊かな演奏をするなんて、誰も想像していなかったに違いない。彼から放たれる一音一音が、光のように客席に降り注ぐ。ホール中の空気がうっとりと絆されていくのが分かった。
 朝から彼のピアノに触れてきたが、中でもこの「愛の夢」にはそれまでとは違う感情がこもっている。誰かにピアノを届けようとしているのか、そんな色っぽさまで漂っていた。一体、彼はどんな想いでこの曲を弾いているのだろうか・・・。

 すっかり彼の演奏の虜になっていたが、隣から鼻をするる音が聞こえてきて、瞬時に現実に戻ってきた。横を見ると、目を柔らかくしてみているアキがいた。その目からは熱いものが流れている。
 その時、ヒロナには音楽祭委員の人たちの思惑が分かった気がした。

“今回の音楽祭は、彼のための、全ては前座だったのだ・・・”

 音楽祭冒頭の校歌の伴奏から始まり、エキシビジョンという名のソロ演奏。そして、合唱コンクールを挟んで、有志企画のトリ。確かに、今日で明月高校全校生徒に、森口リオンの存在はハッキリと轟いた。それは私も同じこと。
 自分が彼に心を奪われたように、彼のピアノは多くの観客の胸を掴んだのだ。

 静かに曲が終盤に向かう。
 彼の腕は、天使でも撫でるみたいに優しくしなり、ピアノに触れていく。
 夢の終わりが近づいてきた。
 たぶん、この演奏をキッカケに私たちの人生は変わるんだろう。そんな気がした。たかが高校の音楽祭だけど。彼を知ったことで、これまでの私は死んだのだ。もう、彼のピアノを知らないという人生には戻れないのだ。

 ヒロナはキュッと口を結んでから、大きく息を吐いた。


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