【小説】 お茶の時間
「あんたって、ほんと行水なのね」
タオルをクビにかけ、湿った髪からシャンプーの香りを振りまくヒロナに、母は言った。
「へ? ぎょう・・・?」
「お風呂から出るのが早いってこと」
「そうかな・・・」
時計の針を見ると、帰ってきてから20分も経っていないことに気付き、ハッとする。
体内時計が狂ってる。自分的には長湯をしてしまったつもりだったし、考え事をしすぎて煮詰まったから、お風呂を出た。
でも、現実は違う。
「私はお茶でもしようと思ってたんだけど、ヒロナもいる?」
神隠しにあったような妙な気分に襲われながらも、ヒロナは「うん」と答え、タオルで髪の毛を拭いた。
「そっかあ。ミウちゃんは受験退屈なのかあ。なんか分かる気がするなあ」
「なんで、お母さんが共感するのよ。大学行ってないでしょ」
ヒロナはミルクがたっぷり入った紅茶を一口啜り、ソーサーの上にソッと戻した。家族だけの大晦日だというのにカップとソーサーを用意するのが、なんとも母らしい。忙しい日々を過ごしているからこそ、ゆっくりした時間を余すことなく味わいたいという母の考えだ。
日常的に使う食器はすぐに捨てるのに、こういう場で使う食器には、不思議なこだわりを見せる。曰く「何事もカタチが大事」なんだそう。
カップの他に、深い土色に真っ赤な緋襷が鮮やかに配された備前焼のお皿。
その上に小分けビニールに包まれたフィナンシェが積まれている。
なんともミスマッチに思われる日本ならではの和の香りがする食器だが、一切主張することはなく、カップ、食器、お菓子、それぞれが驚くほどに馴染んでいる。
テーブルの上を眺めているだけで、ヒロナは優雅な心持ちになり、ズレた体内時計が徐々に時差を埋めていく気がした。
「受験勉強に限らずよ。私も人生は退屈だと思うわ。だから、あなたにもユキトにも、自分が退屈しない選択をして欲しい」
母は深煎りのコーヒーに眼を落とし、一瞬だけ物憂げな表情を浮かべた。
ヒロナの胸の奥がチクリと痛む。
“生きるってのは、死ぬまでの暇つぶしのことなんだ”
父の声が耳の奥で反響した。
怒っているのか自慢気に言っているのか、音だけでは判断できない父の濁声。
親子の関係というより、師匠と弟子。親分と子分のような関係だったのかもしれない。
鈍臭かった弟のユキトは父に何度も叱られ、そのたびに身体にアザを増やしていく。母は物憂げな表情を浮かべながら、弟に薬を塗っていた。
「ヒロナ、これ、とっても美味しい」
母はフィナンシェをかじって笑顔を見せる。
促されるようにヒロナもビニール包を開けて、フィナンシェを口に運んだ。
口に入れた途端に、バターの香りが鼻腔をくすぐり、こっくりした甘さが口の中に広がる。唾液腺がキュッと痛くなり、「んん」と唸りながらヒロナは思わず眼を閉じた。
甘いものには、美しいものを見せる力がある。
一粒のチョコレートが戦後の子供たちの飢えや悲しみの涙を拭ったように。人を元気にすることができるのだ。
父が何度も何度も言い聞かせた言葉を思い出す。
「生きることを好きになれ・・・」
イタコのように、ヒロナは言われた言葉をそのまま呟いた。
「・・・え?」
「いや、なんか、今、思い出して」
ハッと我に返り、ポイとフィナンシェの残りを口に放り込むヒロナに、母は柔らかい笑顔を見せ、ゆっくりとコーヒーを啜る。
「・・・そうね。本当にそう思う」
ヒロナが時計を見ると、もう、時刻は夕方になろうとしていた。
1400字 2時間14分
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