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“絆と言う呪い”を肯定せよ-2017年9月KEYTALK横浜アリーナ公演を追懐して [3]

([1]はこちらから→“絆と言う呪い”を肯定せよ-2017年9月KEYTALK横浜アリーナ公演を追懐して [1])
([2]はこちらから→“絆と言う呪い”を肯定せよ-2017年9月KEYTALK横浜アリーナ公演を追懐して [2])

僕は別に現実主義者でもなんでもないしがない夢追い人なのだが、永遠なんてものはないだろうと思っている。ひとはいつか死ぬのだ。ひとの「永遠」なんて、せいぜい百年かそこらだろう。

首藤義勝さんの歌う歌詞には何処となく刹那主義のような趣が滲み出しているものが多く、どんなにピュアで爽やかなラブソングやポップスでも永遠を思わせるようなフレーズはまず存在しない。それはきっと彼自身の今まで過ごしてきた二十九年(当時はまだ二十八年だったけれど)の人生経験やちょっとひねくれた恋愛観、影響を受けてきた音楽や読書家で知られる彼の読んだ小説、漫画などによって培われてきた感性であり、僕のようなヴィレヴァン下北沢店の店先にでも行けばゴロゴロ転がっている、何処の馬の骨ともわからない義勝勢には知る術もないブラックボックスだが、「今がすべて」と瞬間を生きる彼の、火花のような儚いまでの存在感を構成する要素のひとつにはきっと、あの出来事——過去のバンドの解散もあるはずだ。

永遠など存在しない。愛や恋だけでなく、友情やロックバンドにも勿論永遠はないのだ。その事を身を持って、痛い程に知っている彼が、一度はぼろぼろになってしまったかもしれないバンドマンとしての自分の矜恃を大事に大事に胸に抱え、メンバーに、僕達に伝えてくれたのであろう、あの言葉。美しくないはずがないのだ。僕なんかの呪いとは質が違う。その煌めきはまるで、祈りのように尊い。

所詮僕達は一瞬一瞬の刹那を重ねていった先にある半永久を、永遠だと勘違いしているだけだ。彼はきっと、そんな無情を知っている。


無情な無常を知る彼があの言葉を口にするまでの経緯も、また想像する事しか僕達には叶わない。壮絶な、なんて言ったら大袈裟だとは思うが、しかしそれでもちょっとやそっとの時の流れや経験では、あんな舞台であんな言葉は言えなかったろうと思う。

ただひとつ言えるのは、あの言葉が僕の「呪い」とまったく異なる印象を含み、「祈り」として昇華される優しさを持っているように聞こえたのは、そこに依存が存在しないからだろうと思った。


僕がロックバンドへの憧れを抱き続けているのは、そこに恋愛関係や血縁関係なんかの一見強固と思われるような関係性を越えた理想の関係性を見出しているからであり、その根底にある必要条件はメンバー個々が互いに依存せず、プレイヤーとして自立している事である。
ベース、ドラム、ギター、時にキーボード、DJ、そしてボーカル。バンドはそれぞれのメンバーがそれぞれの役割を全うする事が絶対条件である表現者集団であり、そのためには自分自身の役割に誇りを持ち、互いの役割を尊重し合う必要がある。KEYTALKのようにメンバーそれぞれ作詞作曲をするバンドなら、尚更だ。

きっと義勝さんは紛れもない、他にスペアのいない「KEYTALKの首藤義勝」として生きる役割に誇りを持っているから、あの言葉を力強く口に出来たんじゃないか。今の彼が言うからこそ、あの言葉は呪いではなく「呪(まじな)い」になったのだ。仲間を縛る鎖ではなく、彼等と共に理想や夢を、力を合わせて叶えるための力強い祈りの呪文だ。

僕も彼のように、僕なりの役割を果たしたいと思う。僕の役割なんて、まだまだ明確にはわからないけれど、もしかしたらそれが「書く事」なのかもしれない。それしか取り柄がないし。

誰かに依存せず、自分が自分として自立するために、そしてその楽しさを大事な友人達と共有するためにものを書く。その方がきっともっとフェアな友情を築く事が出来るような気がする。 書く理由なんて他の誰でもない、自分が健やかに生きるためでもいいんじゃないか、とりあえず、今のところは。


横浜の地下街のロゴがナニのメタファに見えると言っては男子中学生みたいに笑ったり、ホテルの部屋からエッチなビデオの目録を見つけてみたり、帰りの電車内でぼんやりしながらグッズと一緒に買ったフォトブックを眺めたり。一見どうでもいい一瞬一瞬が大事な旅の想い出だし、それが重なってゆくにつれ楽しい時間は永遠にもなる。駅ビルの喫茶店で食べたアップルパイの味はきっとずっと忘れない。


ライブで、舞台上部の液晶画面にKEYTALKの過去の映像が流されたひと幕があった。まだ垢抜けない、幼さすら残る四人の姿、そしてその後に演奏された『バイバイアイミスユー』。客席後方に設けられたお立ち台に現れた四人が、大サビで客席全体のシンガロングに包まれる景色はとても美しかった。武道館でも演奏された想い出深い曲だ。僕達にとっても、そしてきっと彼等にとっても更に大切な曲になった。
アリーナ席を挟んで視線を交わし合うボーカルのふたりと、オーディエンスひとりひとりに届けようとしているような穏やかな表情で一音一音丁寧に弾く武正さん、そして心底楽しそうに優しいビートを鳴らす八木ちゃん。隣を見ると、普段ライブ中でもあまり感情を大きく表には出さない彼女が、肩にかけたグッズのタオルでそっと目元を拭っていた、気がした。あの一瞬も、多分ずっと忘れない。


最近また彼女とライブに行ったり遊びに行くようになった。一時は心配で仕方なかったが、今は割と落ち着いているようだ。いや、彼女はまだ僕には察する事しか出来ないような次元で苦悩し続けていて、もしかしたら今見せてくれている笑顔は空元気なのかもしれないけれど。
でも、「また小説が書けるようになった」と原稿を読ませてくれたのはとても嬉しかった。もしかしたら、僕の呪いは実は既に何処かで「呪(まじな)い」に変化していたりするのかもしれない。

だけど多分、僕は一生悩み続けるだろう。そして、悩みながら書き続けるのだ。「五十嵐家の付属品」ではなく、スペアのいない「五十嵐文章」としてひとりでも生きられるように、依存心のない真っ直ぐな友情を築き、件の彼女だけでなく大事な友人達皆に真っ直ぐな気持ちで「君が必要だ」と言えるように、僕はこれからも書き続ける。おぞましい「呪い」を、祈りのように美しい「呪(まじな)い」に変換するための儀式として。


僕は先日誕生日を迎えた。横アリの前、武道館でのライブを成功させた時のKEYTALKと、あと一年で同い歳になる。それまでに、と言うのはまず無理だろうけれど、いつかあのひと達が見ていた景色に少しでも近づけるような物書きになりたいと思いながら、今日も文章を書いている。そして今年もまた彼女と、KEYTALKのライブに行くのが楽しみだ。

「絆」と言う言葉は、まだちょっと好きにはなれないけれど、奥歯に挟まったあの言葉のほろ苦さは、少しだけ好きになれた気がする。

[終]

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