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“絆と言う呪い”を肯定せよ-2017年9月KEYTALK横浜アリーナ公演を追懐して [1]

「絆」と言う言葉がこわい。

あーわかるわかる、わかるわーとお茶の間のわかり手の皆さんの優しい声が聞こえる。二十四時間テレビ的なアレでしょ?愛は地球を救う的なアレでしょ?正直ウッザイ、胡散臭さしか感じねえんだよなあ。
違う、そうじゃない。
いや、その気持ちもわかります。よーくわかります。僕だって二十四時間テレビなんか、小学生の時分から大好きな嵐がメインパーソナリティの回しか観た事ないぐらいああ言うの苦手なタイプです。でもね、多分、僕がこの、いわゆる意味合いとしては「美徳」と捉えられるような言葉に懐疑的、それどころか恐怖すら感じているのは、そんなクールでシニカルな視線に由来した感情ではないのだと思う。

僕はひとりっ子で、昔から両親の愛情を一心に受けてすくすくと育った。ひとりっ子=我儘、と言うようなイメージは根強いようだけれど、それは家族に子供がひとりしかいない分、親がその子以外に愛情を注ぐ必要がないため、言ってしまえば当然の事なのだ。

その分、ひとりっ子はきょうだいさえいれば分担出来る負担もすべてひとりで背負う羽目になる。仕事を休んで病気の父親の検査や退院に付き添い、家では父親の治療費の足しにフルタイムでパートに行っている母親の話し相手をこなす。体調不良を押して仕事に行った帰りも、身体が怠くて動けないなんて贅沢な文句は出来るだけ言わないようにしないといけない。母ちゃんも週四でフルタイムワークしてるんだから、貧血と低気圧のコンボで目眩が止まらなくて意識がぶっ飛びそうでも、皿洗いぐらいはしなくちゃ面子が立たない。

すべての猫が気まぐれではないように、すべてのひとりっ子が僕のようなひねくれた責任感と思い込みを持っているわけではないだろうし、別に僕はこの文章でひとりっ子の悲哀を多くのひとに伝えたいわけでもなんでもないが、これから老いゆく親を支えないと生きてゆけない、と言う環境に長く身を置いている限り、僕はまるで「家族」と言う生命体の一部にでも成り下がってしまったような卑屈な感情を抱き続ける事になってしまう。

紛れもない個人の「僕」ではなく、「家族」と言う生き物の指となり腕となり末端で働く細胞の集合体。それが家庭に身を置いている時の僕だ。

だから僕は友達が大好きだ。
友達と一緒にいる時の僕は、「家族」から生えた触腕でも鞭毛でもなく五十嵐文章と言う紛れもないひとりの個人だ。友達にとっての僕は「五十嵐さんちの文章くん」ではなく、あくまでもただの「僕」なのだから。
それに、友達同士の関係性は家族や恋人同士に比べて比較的半永久的なイメージがある。紙切れひとペラで契約を交わしたり、「別れよう」のひとことでバラバラになってしまったり、支配と被支配の力関係が何処かに伴ったりする繋がりは、僕にとってはひどく儚くて頼りなくて面倒くさいものなのだ。まあだからこそ美しいんだろうけどもね。

友達同士は紙切れの契約なんて必要ないし、「これだけはコイツに敵わない!」と言う必殺技はそれぞれあるだろうと思うが基本的にはあくまで対等な力関係だし、最悪馬が合わなくなったりしたらお互いに精神的負担が極力少ない形で距離を置けば良いだけ。半年会わなくたって、まるで昨日会ったばかりのようにお喋り出来ちゃったりする。なんて気楽で、なんて尊い関係性だろう。

とは言え、そんな関係に頼りすぎた挙句に辿り着く最果ての彼岸は「依存」だ。これはよろしくない。気楽で深い繋がりを持つ関係が魅力的なはずの友人同士だって、そこに依存してしまえば互いに多大なストレスでしかないのだ。

僕は何処かで友人達に依存してしまっている部分がある、気がする。

根暗のパリピなので友達は決して多くはない。もしかしたら僕が一方的に友達だと思っているだけで、彼女/彼からしたら「そうでもない」関係なのかもしれない。だからこそ、少しでも連絡が途絶えたりすると途端に恐ろしくなって僕はメール魔と化す。別に一日に何十件とメッセージを送っちゃう、なんてレベルではないが、相手が「放っておいてくれ」と言ったにも関わらず、どうでもいいような用件でメッセージを送ってしまったりする。大好きなKEYTALKのベースボーカル義勝さんの太もものしなやかなシルエットが美しくて一生に一度は是非とも挟まれてみたいね、だとか。

誰よりも友達が大切だ。それを友達本人に伝える事が大事だとも知っている。でも、それが怖くなる時がある。

君が必要だよ。出来るだけ長く一緒にいたいよ。君との絆を大事だと思うよ。そう伝える事が、相手にとって「呪い」になっているのではないか?相手を縛り付けてはいまいか?

家族に縛り付けられるのが嫌で家庭から逃げ出した僕が、今度は僕以外の誰かに、言葉で呪いをかけているんじゃないか?

だから僕は、「絆」がこわい。

とある物書き仲間の友人がスランプに陥ってしまった。学生時代からの付き合いで、もう親友と言って差し支えない関係の子だ。
彼女は、「書く意味が見いだせない」と言うような事を言っていた。奇しくも、僕も同様の悩みに慢性的に苦しめられ続けていた。
多分、多くの「文章を書く人」の心を支配しうる悩みなんじゃないかと思う。「書くのが楽しいから」「誰かに褒めてもらえるから」等など思いつくだけの「書く意味」を挙げればそれなりに出てくるものだが、「書く事」以外にも楽しい事があったり、同じテーマを書いていてももっと優れた物書きがいたりすれば話は別だ。

そしてそんな時に言われて一番嬉しい言葉は大体、「お前の書く文章が好きだ・必要だ」と言う、ストレートな愛の告白。アイ・ラブ・ユー。アイ・ニード・ユー。これだけで、少なくとも一ヶ月は何かしら書く気力がじわじわ湧いてくるし短編小説一本又はエッセイ三本は容易に書ける最強の燃料になる。

僕も彼女にこの「最強の燃料」を叩き込んだ。そして後悔した。

彼女は今「書けない」と言っているのだ。

そこに「君の書く文章が僕には必要だ」と言葉を伝えるのは、エゴではないだろうか?

まるで悩み頭を抱える苦悩のドリアン・グレイの目前に、わざわざ例の肖像画を突きつけているようなものなんじゃないのか?苦悩する人を急かして、一体何のためになる?

僕は、物書きとしての彼女への愛で、彼女に呪いをかけてしまったと思った。


昼飯にインスタントのフォーを食べながらメールを打ち、送信ボタンを押して天を仰いだ。奥歯から手品のように、飲み込んだはずのパクチーの欠片が出てくる。料理と混ざっていないために、本来のクセの強さがダイレクトに伝わってきた。オエッ。
奥歯に引っかかっていたパクチーと共に、不意にあの夜の出来事を思い出した。あの夜の、あの大舞台の、あのひと達のあの勇姿、あの歌声、そしてあのひとのあの言葉。

正に奥歯に挟まったパクチーのように、親知らずをチクチク刺激しながら僕の中で小さくほろ苦くわだかまり続けていた、あの言葉。


もう半年以上も前になる。僕が同世代のカリスマと敬愛してやまないKEYTALKが、横浜アリーナでワンマンライブを行った。前身バンドから数えて約十年、メンバー全員が出会って十年目の年に、それを祝した記念ライブ。僕達も例外なく勇んでチケットを取り、早々に宿も取って都を越え県を越えた横浜まで飛んでいった。

僕「達」、と言ったのは相方がいたからだ。件の、学生時代からの付き合いになる物書き仲間。自他共に認めるロックバンドオタクの僕の手練手管で見事に彼等の音楽に惚れ込んでくれた彼女を誘い、初めての遠征に臨んだ。訳あって学生時代に修学旅行や卒業旅行みたいなものにあまり参加出来なかった僕は、遅れてきた青春と言わんばかりにわくわくしていた。「わくわく」って言い回し、日常生活でなかなか使う機会がないけれど、あの日の僕の気分にこそ最も相応しい言葉だ。ライブは勿論何より楽しみだったし、相方と泊まる宿に向かって電車に揺られているだけで、不思議な安堵感と相反する非日常感の狭間で足元が知らぬ間にツーステ踏んでるような軽やかさがあった。ツーステ踏めないんだけど。

最寄り駅前のファミレスで待ち合わせて、早めの昼食を摂りながら旅の予定をなんとなく話し合う。一泊二日の弾丸旅行なのでそれ程のボリュームではないが、引きこもり気質の僕達からしてみたら大冒険だ。ホテルのチェックインさえひとりでできるかな、である。

何やら和定食をつつきながらお揃いで着てきたグッズのTシャツの着心地をレビューしていた(「柄は可愛いしサイズ感も抜群なのだけど意外と生地が薄くて下着が透けるのが難点」)相方が、「永遠とは一体何なんだろう」「空は何処まで空なんだろう」などとやたら哲学的な話題を振ってきたのが妙に記憶に残っている。お前はアリストテレスか、と思いながらも、答えのない哲学問答はくだらない下ネタとの境目で火花になった。

長いこと電車に揺られ、途中駅前のホテルに荷物を置き、最低限の身支度で電車を乗り換え新横浜へ向かう。駅からアリーナへの道は、さながら大明神への表参道、城へ続く城下町だ。その辺の呑み屋からやたらと聞き覚えのあるBGMが聴こえてくるのは多分便乗商法。悪いな、おれ達は終わったらとっととコンビニで夕飯調達してホテルの部屋で余韻を語り合う予定だ。

会場前にはポリスカーまで出動する程のひとだかり(KEYTALKファンの名誉のために言っておくが、別に警察沙汰のごった返しが生じていたわけではない。念には念を、と言う事だろう。良識あるKEYTALK勢の皆さんには、流石に会場前でサークルモッシュ形成するようなガイキチはいないようだった)。要塞のようなアリーナの外壁には映像が投影出来るようになっていて、KEYTALKの歴代のMVがエンドレス再生されていた。大写しになる我が推し義勝さんの上裸、そして乳首。何故か必死で見ないように自制心を働かせてしまう五十嵐。

グッズ販売所の凄まじい列を乗り越えていざ会場へ。広いロビーでは大盛況の客入りを祝うように、いつもライブハウスのステージのバックで輝いているバンドロゴを象ったネオンサインが展示されていた。彼等と仲の良いバンドやいつも衣装提供をしているらしいブランド、レコード会社などから贈られたデカい花輪が壁沿いに並ぶ。あまりの盛り上がりにちょっとビビる引きこもりふたり組。しかしここまで来たら引き返す事は出来ない。チケット代も勿体ないし、何より今日この日のために2017年を生きてきたと言っても過言ではない僕達である。とりあえず心を落ち着かせるためにトイレに行ってから座席へ向かう。

途中トイレ待機列の前でKEYTALKのマスコットキャラクターである「KEYTALK MONSTER」の着ぐるみに遭遇したりしつつ(大きくてモフモフしていてずりずり歩いていた。余力があれば抱きつきに行きたかった程可愛かった)、アリーナの中に入った。SEは彼等が出会った十年前のヒット曲。UVERworldにミスチル、あまりの懐かしさと一瞬その意図をはかりかねて目を白黒する引きこもりふたり組。それはそれとして会場が、めちゃくちゃデカい。とにかくデカい。僕達は丁度舞台を真正面から見据える位置のスタンド席だったのだが、眼下に広がる景色に背筋を冷や汗が伝うのを覚えた。

夥しい数の人、人、人。
何処までも続くのではと錯覚する程広いアリーナ席と、ちょっとでも身を乗り出したら地球の反対側まで落ちてしまうんじゃないかしら、と言う高さの座席。左右にもこれでもかと座席が並び、それを埋め尽くす程の観客が各々ライブグッズのタオルを肩にかけたり、写真を撮ったりしている。何だか緊張してしまう。彼等のライブに行くようになったのはここ数年の事で、決して小さなライブハウスで演奏していた頃から知っている、と言うわけではなかった。でも、アリーナスタンディング前から五列目とかから見つめていた彼等がこんなに途方もない大きさの会場をこれから揺らすのだ、たったの四人でこの会場を揺らすのだと思うと、始まる前から得体の知れない感情が込み上げて脚が小刻みに震えた。

たった四人である。四人対一万二千人。アクションバトルなら多勢に無勢だ。しかしその時僕は間違いなく既に彼等に負けていて、ここにいる大多数の観客もきっとそう思っている事だろうと思った。まず、生きて最後まで彼等の音についていけるか不安である。隣に立つ相方の表情も少し強ばっているような気さえしてくる。

腹の中から身体を食い破るような期待と、一抹の不安を抱えたまま、開演の時を待った。

([2]へ続く!→“絆と言う呪い”を肯定せよ-2017年9月KEYTALK横浜アリーナ公演を追懐して [2])

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