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地上の浄土と信仰のような何か-五月、Plastic Tree『doorAdore』東京公演を観に行った[3]

([1]はこちら→地上の浄土と信仰のような何か[1])
([2]はこちら→地上の浄土と信仰のような何か[2])

プラのライブに行くようになってゆうに五年は超えた。四捨五入すれば十年ぐらいにはなるだろう。

それでも「来年しれっと二十五周年になる(by正さん)」彼等のロックバンドとしての人生の半分も知らない自分が彼等の成長や変化を語るのはおこがましい限りだが、僕がライブに行くようになった十年近く前——多分、ドラムを先代のドラマーの方からケンケン氏が受け継いだ頃辺りだ——と比べ、彼等がライブ中に見せる表情が年々楽しそうになっている事は確実だと思う。

そして僕はそんな、キラキラした笑顔でロックを鳴らす四人に稀に恐怖を抱いてしまう事がある。

決して明るくない作風のバンドだ。特にもっと若手だった頃なんかは、ライブDVDなどで観る限りロックをエンジョイしていると言うよりも、まるで熱病に侵されてでもいるかのような雰囲気や表情の方が印象深かった。
文字通り舞台の上で果ててしまおうとでもしているかのようなオーラ。自分はいつかここで死ぬのだと言う、確固たる信念。

銀髪を夜叉のように振り回すベーシスト、頑なに顔を俯けて表情を見せようとしないギタリスト、クールに影に徹するドラマー、お人形のような衣装で目の周りを真っ黒にメイクし、さもヴィジュアル系であらせられると言った佇まいのボーカル。

今でもそんな狂気がないとは言わないし言えないし、彼等の演奏から緊張感がなくなったなんて事もまずないし、でもそこにあるのはまるで自殺行為に走るようなひりひりした狂気ではなく、寧ろ舞台の上でロックバンドとしての余生を全うし、寿命を迎えようとしているかのような穏やかで潔い狂気だ。

若手バンド特有のひりひり感が一切なくなった分、観ていてとても安心するし楽しいし、本人達もきっと誰よりライブを楽しんでいるのだろうと思う。でもそれは、同時に彼等が心の何処かでロックバンドとしての死期を悟っているのかもしれないと言う可能性を認める事にもなるわけで……。


例えば三十年後。単純計算で彼等は七十代になる。七十のPlastic Tree、全然想像出来ないけれど、少なくとも今のライブバンド・Plastic Treeにはもう会えない可能性はゼロではないのだ。

だとしたら、である。

一体誰が僕のような、感情過多で神経過敏な奴等を救うのだろうか?


久しぶりにヘドバンしすぎて身動きが取れなくなった。学生の頃はどうって事なかったのに、目眩が凄まじくて終演してからもすぐには座席を立てない。迷惑な客で申し訳ございませんが、三分程お時間を頂戴致します。

立ち上がれない間で頭の中に溢れる思念の断片を整理する。左右に座っていた何処ぞの異国産の海月さん達も少しずつ去ってゆく。

僕にとって、ライブは確実に地上の浄土だ。極楽浄土なんて死んでも行けるのか果たして疑問だが、僕と同じように感じているひと達が確実にこの空間に一定数はいたはずだ。そして僕等は、地上の浄土にずっとい続けられるわけでは決してない。この極楽は、二時間半からせいぜい三時間程度で僕達の目の前から消滅してしまう。

ロックバンドもまた然り。いつかは終わってしまうものに違いはない。解散、脱退、活休。淋しいけれど、その辺にゴロゴロ転がっている、当たり前にありうる事だ。

地上に存在するありとあらゆるモノが、決して永遠不変でない事ぐらい、僕達はわかりきっているはずなのに。なのに、何故か、それに永遠を望んでしまう。自分ではそのつもりじゃなくても、心の何処かで期待しているのだ。まるで恋人や仲間との青春を、蜜月を、不変のものだと勘違いして守れもしない誓いを立てようとでもするかのように。

僕達の生命も勿論儚いものだ。長生きするか、早死するか、その程度しか差はなく、みんないつかは死ぬ。

地上の浄土が儚いのは、それを作り出しているのがまた、儚いニンゲンだからかもしれない。僕が信仰の対象としているロックバンド、ミュージシャンも、当たり前だが僕達と同じく限りある生命を生きている。儚い生命を生きるために、彼等自身も自分の中にある信仰を、執着を、音楽と言う美しい形状に切り出しているのだ。やっぱり芸術や文学は、音楽含め、仏像とかに似ている気がする。

信仰を切り出した造型は芸術に実を結び、後世に影響を与える。音楽であれ文学であれ漫画であれ絵画であれ、僕達は芸術に心を救われたり、生きる支えだと感じたりした経験が少なくとも一度はあると思う。それは、その芸術を生み出した誰かの信仰や執着の結晶なのだ。僕達は、誰かの信仰や執着に救われ続けている。

今自分が抱えている切実な信仰が、もしかしたら誰かを救うかもしれない。そう考えたら、それを作品の形に結晶させる事は決して無意味じゃないんじゃないかと思えた。それがどんなに拙い形になったとしても、何の形にもしないよりはましだ。

そんな気持ちを中野から持ち帰って、今この文章を書いています。


世界からPlastic Treeみたいなバンドがいなくなってしまったとしても、彼等の信仰の結晶を受け取った誰かが、彼等がいなくなった世界に生きる僕のようなどうしようもないヤツを救うのかもしれない。
(その「誰か」は、もしかしたら僕自身なのかもしれないしね。)


アンコールも終わった後、有村さんがマイクの前でいつもの王子様みたいな仕草でお辞儀をしながら言っていた。

「これからもずっと、また、プラスチックの枯れない木のしたでお会いしましょう。有難うございました」

今後この口上を、一体何回聞けるだろうか。

少しでも多く、聞き続けたいなあ。

生きられるだけ生きて、一回でも多く聞き続けたい。

気の狂った信仰心と各種言い訳を抱えたままダラダラと生きながらえてしまった僕だけれど、まだもうちょっとだけ、生きてみようかな。どうせ、いつか二度と聞けなくなってしまうのだから。


母の日の夜、呑気にサザエさんを観ている母親を横目に夕飯を作る。我が家では家族揃ってサザエさんエンディングの例のじゃんけんに参加すると言う謎の風習がある。その日も僕はついつい、料理の合間に母と一緒に二十七歳主婦の仕掛ける勝負に応じた。結果、じゃんけんの女神はアニメの主婦の方に微笑んだ。

まあそんなもんだ、現実のみっともない二十六歳よりもウン十年主婦やってる二十七歳の方が立派なもんだろう。潔くテレビの前から台所へ戻ろうとした時。

座椅子に埋まっていた母親が徐に僕の拳に自分の拳を軽くぶつけてきた。

「何?」

「じゃんけん勝ったから。分けてあげようと思って」

思わず笑ってしまった。


親の愛すら素直には受け入れられない程に捻くれ、心臓の裏に頑強に根を張った厄介な原罪意識も、この先長い(かもしれない)人生の中で少しは解れてくれるだろうか。

それともそれすら大事に抱きしめたまま、信仰の結晶を綺麗な形に切り出す事が出来るようになれば、原罪もろとも自分を好きになってあげられるのかもしれない。自分達の音楽に誰よりも誇りを持っている、あの彼等のように。


(レタスチャーハンは美味しく出来ました。マヨネーズ小さじ二杯が決め手。)

[終]

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