『教育格差』縮まらない差、現場にできるのは? vol.629
先日、対話の先生塾にて『教育格差』の読書会を行いました。
自分で選んでおきながら、なぜ私はこんなにも学術論文に近いような難しい本を選んでしまったのかと自責の念に駆られていました。
案の定、本の内容を要約したつもりが、なかなかうまく伝えられず。
無念といったところ。
しかし、何となくこの本の著者が言わんとしていることも理解できました。
今日はこの本を読んでの感想を書いていきます。
格差はすでに幼少期で生まれている!?
この本の中では主に既出となっているデータを大量に確認できます。
各家庭による幼少時代の子どもの教育方針、習い事の数、見せていたテレビなど。
もちろんそのようなデータは教育的に活用されているものではないため、文科省のデータではなくさまざまな生活実態調査のデータを利用していました。
ここで、すでに疑問に思う方もいるかも知れませんが、子どもの幼少期からの成長を追いかけて学力がどのように変化していっているのかといった調査が日本においては非常に少ないのです。
日本においては割と家庭環境に踏み入れることがタブーとされている節があり、その風土のせいでなかなか踏み入った調査ができていないようなのです。
ただ朗報もあります。
先日文科省から幼少期から大人になるまでの追跡調査を始めるという発表がされていました。
このデータが揃うのが20年後くらい、さらにデータとしての信憑性を求めるためにはあとさらに10年近く必要かも知れませんが、間違いなく日本の教育研究が一歩前へ踏み出す機会になったかと思います。
小中高大でその差は埋まるどころか、、、
そんな大量のデータを何とか駆使して著者はさまざまな傾向を示してくれています。
その中で驚きなのが、公正であるはずの小中義務教育期間にてこの差が縮まることはないということがわかったのです。
つまり、裕福な家庭であったり両親が共に大卒者である家庭は小中高大と進学するにつれて同様に恵まれた環境の中で学んでいくのに対して、逆に恵まれていない家庭がどんどんとそういった家庭の子どもに学力で追いつけるかと言われるとさまざまな理由から、稀にしかそういったことはないようです。
そもそもの学力という指標で子どもの差を見るというのがナンセンスかも知れませんが、こと日本においてはそもそもが学力社会であるために最も分かりやすく雑な指標ではあるものの、これが正攻法になってしまうのでしょう。
確かに教育の機会は平等にあるのかも知れません。
しかし、それを活用できたりより良いものを自分で掴んでいく力というのは、ついてしまっている差のが顕著に現れるのかも知れません。
埋まらない差がある中で教員は何をすべきなのか
そんな学校が差を埋めていく、要はどんな子でも学びたいことを学びどんどんと突き進んでいけるような仕組みがない中で、我々教員はどのようにしてあげればいいのでしょうか。
やはり私はさまざまな機会を与えられるチャンスを教員自身が持っているということ、そしてその力を伝授していくことにあると思います。
幸いにも以前と比較して、コンタクトを取りたい相手には何かしらのツールを通じて連絡を取ることが可能です。
その連絡の取り方であったり、教員自身がすでに持っているつながりを伝えたり渡していく。
こういった個の支援でしかこの差を埋めつつ教育はできない気がします。
それも学校間の差や教員間の差を生んでしまう原因になりますが、、、。
国がもっと教育に力を注いでくれれば一気に解決なのですが、今はそんな風潮もない。
果たして我々には何ができるのでしょうか。
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