『はみだしの人類学』わたしはわたしだけのもの? vol.767
明日は対話の先生塾の読書会です。
こちらの本を紹介させていただきます。
『はみだしの人類学』
人類学というと何か壮大なものを想像しがちですが、この本はそういった類のものではなく、むしろこれまでの価値観や自分自身の存在を確かめた上で他者との関係を考えるための本となりました。
今日はこの本を読んでの感想を書いていきます。
わたしはわたしだけどわたしだけでない
あなたがもし「あなたはあなただけどあなただけでなはない」と言われたとしたらすぐにその真意を理解できますでしょうか?
おそらくほとんどの人が「は?」となったり、「いやいや、わたしはわたしだ」となるに違いありません。
それもそのはずです。
わたしなるものはこの世にたった1人しかおらず、他に代えられるものはいないのですから。
しかし、それではわたしをわたしと証明するものは一体何なのでしょうか。
わたしたちは常に自分以外の他者や環境とある「つながり」をもって生きています。
家族、友人、学校、会社、習い事、ご近所、、、。
それぞれの中でのわたしは確かに存在をしているのですが、わたしをわたしとして認識して、当たり前のように接してくれる相手がいるからこそわたしはわたしであり続けられるわけです。
環境においても同じです。
例えば、昨日みたテレビ、読んだ本、したこと、それによって今のあなたは異なるわたしになっているはずです。
たくさん運動をしたのなら、筋肉痛のわたしになっているかもしれない、夜更かしをしたのなら寝不足のわたしになっているかもしれない。
わたしはわたし個人で完結していると思いきや、さまざまな「つながり」があるからこそ認識できるものとしてあり続けるわけです。
全く違うと割り切るだけでなく
しかし、他者と全く異なる自分を認識することがわたしを実感するということかと言われるとそれだけではないわけです。
「つながり」は確かに、他者との違いを確認することでさらに強化されることもあるかもしれません。
しかし、その逆もあるわけです。
例えば少年と少女。
当然2人はそれぞれ違うわたしです。
しかし、それを前提として何が違うのかと考えていきましょう。
まずそもそも男女という差があります。
色の好き嫌いもあるかもしれません。
カバンの違いもです。
ただ、色が一色で統一されている。
大人と子ども。
髪染め。
などといった別のカテゴライズを適用すれば、他者と区別することで生まれていた「わたし」という輪郭が薄まるのです。
これをこの本では「はみだし」と読んでいます。
違うと思い込んでいた自分の別の側面を見つけて、境界線を引き変える。
いままでの自分の枠からはみだす行為です。
今回はただのカテゴライズでしたが、これがもっと他に転用できればそれは思考の拡張に繋がり、学びそのものになるわけです。
文化人類学とは、、、
この本は文化人類学がなんたるかをひたすらに記しているというものでもありませんでした。
もしかしたらそんなものは本当はないのかもしれません。
それが著者が冒頭で記載していた、文化人類学者はあらゆる学部にいるという言葉に由来しているのかもしれません。
そもそも文化人類学とは、他者を通して自分自身の輪郭を見つめ直し、視点を拡充していくそのプロセスそのものを指すのかもしれません。
ともすれば、私たちは常にその学問の中に生きており、終わりなき探究の中で過ごしているのかもしれません。
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