語用論と叙述トリック

ドラマやアニメで、昔は苦手だった描写の仕方があります。

たとえばアンパンマンでよくあるのが、ドキンちゃんがカツラと眼鏡をつけただけの簡易な変装をして、「ドキ子」というバレバレな偽名を名乗り、悪事を働くシーン。
あるいは恋愛ドラマで、主人公が勢い余って相手役に「すき」と言ってしまってから我に返り、「すき…家の牛丼食べたいな!」と明らかに不自然な誤魔化し方をするシーン。

いや普通バレるでしょ! バレないのおかしいでしょ!と思ってしまい、素直に楽しめなくなってしまっていたのです。

でもこれ、実際は(フィクションなので実在のモデルがいるわけではありませんが、仮に実在するならば)、もっと精巧な変装をしていたからバレなかったのだろうし、もっと自然な誤魔化し方をしていたから誤魔化せていたのだろう、それをただ演出する上で、分かりやすいように誇張しただけなんだろうと解釈できるようになって、苦手ではなくなりました。

ドキ子の例では、「実際の出来事」(一種のレフェラン)を誇張したものが表出として現れていましたが、逆に、実際より大人しく角を丸くしたものが表出として現れることもあります。

たとえばゴールデンタイムのドラマや、エロゲのアニメ化では、「実際」には一線を越えていると思われる箇所を「添い寝」として表すことがあります。
ドラマ「mother」では、綾野剛が芦田愛菜を性的虐待していると思われるシーンを「口紅をつける」という方法で表現していました。

なぜ、「実際」と「表出」が異なっている表現が成り立つのでしょうか。
それを解き明かすヒントになるのが、「なぜ私たちは、言葉の暗意を理解出来るのか」を分析している語用論という研究です。

語用論的に言えば、グライスの「協調の原理」(語り手は、語ろうとする内容を、なるべく過不足や誤りがないように表現しなければならない)にドキ子は違反しています。実際のドキ子はもっと変装が上手なのに、その上手さをきちんと伝えていないからです。

しかしそれは、協調の原理よりもさらに優先すべき原理である、リーチの「丁寧さの原理」(語り手は、何かを語るとき、出来るだけ相手を傷つけないように気をつけなくてはいけない)を適用した結果だと説明できます。なるべく視聴者にとって親しみやすい表現になるように配慮しているだけで、嘘をついているわけではないのです。

ところで、実は私が未だに苦手を克服できていない表現方法がまだ1つあります。いわゆる「叙述トリック」です。
叙述トリックも、実際と表出が大きく異なっているため、グライスの「協調の原理」に反しているように見えます。
ではこれも、リーチの「丁寧さの原理」を優先させた結果なのでしょうか? 残念ながら、否です。むしろ「丁寧さの原理」にすら積極的に背いているのです。
では、協調もせず丁寧でもない叙述トリックは、伝達行為においてのルールを一切守らない、世から追放すべき無法者なのでしょうか?

ここで、スパーバーとウィルソンが、グライスの「協調の原理」のさらに基にある原則として提唱した「関連性の理論」をご紹介します。
「全ての伝達行為は、それ自身が最適な関連性を持つことを当然視している旨を伝達している」というものです。

実は、このスパーバーとウィルソンの関連性の理論に違反することは不可能です。たとえわざと違反しようとしても、「わざと違反しようとした」という点において、それが発言主体の何らかの意思と関連していることになってしまうからです。
叙述トリックも、当然この関連性の理論にだけは絶対的に縛られている表現です。だから伝達は成功し、私たちは「騙された」と腹立たしく思いながらも理解することが出来るのです。

なので、楽しみにしていた新刊のオチが叙述トリックだった時も、「これは決してルール違反ではない……関連性の理論からは逃れられない…」とブツブツ言い聞かせて自分を納得させようとしている今日この頃です。私が叙述トリック嫌いを克服する日は近い、か?

【参考文献】
『語用論への招待』 今井邦彦 大修館書店 2001年
『入門 語用論研究:理論と応用』 井上逸兵 研究社   2001年


#語用論 #レトリック #文章力 #叙述トリック #ミステリー #レフェラン #シニフィエ #コミュニケーション

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?